短編集35(過去作品)
勝也の押しかけ女房になったのはそれからである。嬉しさを隠し切れなかった表情を忘れられないだけに少しでも影があれば気になるというものだ。特に猫の雰囲気に似ていると思っていただけに、孤独感が似合っているところもあった。そんな紀子が孤独感を隠そうとしても、ぎこちなくなるのは当たり前である。
――一体紀子に何があるというのだろう――
浮気をするような性格でもないし、まだこれからの仲だと思っているだけに寂しさとはまた違っている。逆に浮気をしてその虚しさからの寂しさは、またどこかで誰かを求めようとする寂しさを引き出しているはずだ。その時の紀子にそんな雰囲気は微塵も感じさせるものではなかった。
そういえば紀子のことをそれほど詳しく知っているわけではない。
――相手に自分のことを知ってもらいたい――
という気持ちが強い勝也としては、まず自分のことを分かってもらおうと一生懸命に自分のことを話す。結構時間も掛かるので、最初に話したことを忘れてしまっていたりするくらいで、同じことを繰り返して話すことも往々にしてあるようだ。
自分が話している間の紀子は黙って聞いてくれている。そして一通り聞き終わった後で、少しずつ紀子も自分の話をしてくれた。ゆっくりと、言葉を選ぶようにである。
勝也は性格的にせっかちなところがあるので、捲くし立てるような言い方になってしまうが、紀子の話は一言一言に重みを感じる。
――どの言葉にも真実味が感じられて、疑う余地すらない――
と思う。元々あまり人を疑うことのない勝也なので、言葉の重たさからすべてを話してくれたものだと思い込んでいた。
軽い付き合いならそれだけでもいいのかも知れない。だが、毎日のように食事を作ってくれ、押しかけ女房のような世話をしてくれる彼女のことを、あまりにも知らなすぎると感じるには遅すぎる。従順な彼女に甘えていたからだろうか。
変に遠慮深いところがあるのは、長所だと思っていたが、肝心な時だと短所に十分なりうる。離婚の時にしてもそうだった。
遠慮という言葉に自分が納得してしまって、聞かなければいけないことを聞きそびれてしまうのも勝也の悪い癖だった。事実紀子が離婚経験者であることを知ったのも後になって確認してからだった。
聞き忘れたことが一つでもあれば、まだいくつかあるのではないかという疑問が湧いてくるのもいつものことで、最初と相手に対しての見方が変わってくることもあった。
すべてを信頼しきっていたはずなのに、自分が確認していなかったために、後から疑念が湧いてくる。女性にはよくあることかも知れないが、男性ではあまりいないだろう。
――女性っぽい性格なのかな――
嫉妬深いわけではないが、一度気になってしまうと顔に出やすい性格なだけに、相手からすれば、あまり気持ちのいいものではないだろう。鈍感なため相手の気持ちに気付いた時は、すでに別れを決めた時だったりする。
「どうして別れるっていう話になるの?」
と聞くと、
「あなたは自分で分からないの? やっぱりそうなのね。一言でいうと性格の不一致かしらね」
とあまりにも漠然としての話にしかならない。きっと何を言っても分からないと思ったからだろう。そのことに気付いたのは離婚という二文字が現実味を帯びてきた時だった。
紀子と知り合って、紀子のことを一生懸命に考えようと思っただけでも進歩だと思っている。
そう考えただけで、嫉妬深い気持ちはなかった。気持ちに余裕のようなものがあり、
――自分が好きになった人なんだから、信じられる――
とまで思うようになっていた。
一度紀子の住んでいる部屋の近くまで行ったことがあった。まだ付き合い始めてすぐの頃で、勝也の部屋にも二、三度来たことがある程度だった。
「一度紀子の部屋を覗いてみたいな」
というと、ビクンと一瞬肩が震えたのを、勝也は見逃さなかった。
女性の一人暮らしの部屋に憧れるのは、香りを感じたいからだ。女性独特の香り、甘酸っぱく、時折柑橘系の香りが漂ってくるようなそんな部屋を想像している。
紀子の身体から発散されるフェロモンは甘酸っぱいもので、汗の匂いが混じっていると気を失ってしまうのではないかと思えるほどに男性としての感情をくすぐられる。化粧はあまり濃くなく、香水もほのかに香ってくる程度で、そんなところも勝也には嬉しかった。
勝也の会社にもやけに香水の香りがきつい女性がいる。近づいただけでも一瞬気持ち悪さを感じるほどで、
――自分さえよければそれでいいと思っているのかな――
と思ってしまう。本人にそんなつもりはなくとも、もう少しまわりのことを考えてほしいものである。
紀子の部屋を覗いてみたいと言った時、紀子は肯定も否定もしなかった。どちらの反応もないというのは紀子にしてみれば、「ノー」なのだ。
紀子の部屋に近づいてきたと思っていたところ、ちょうどY字路のようになったところに差し掛かった時である。
「勝也さん、どっちに行きます?」
とそれまで沈黙を守っていた紀子が聞いた。その時の紀子の目は輝いていたが、それは挑戦しているような輝きで、何かを期待しているものではなかった。思わず臆してしまいそうになった勝也は、どちらも選ぶ気にはなれなかった。
困ったような表情をする勝也を見上げる紀子の表情は、無邪気だった。目だけが、
「さあどうするの?」
と訴えているが、それ以外は無邪気そのものだ。そんな紀子を見て、勝也の気持ちはすでに冷めていた。オトコとしての身体の反応が萎えてしまったといっていい。もうこうなっては、部屋まで行こうという気持ちは次第に消えていくだけだった。
一度そんな風に感じると、二度と彼女の部屋に行こうという気にはならないものだ。これが紀子の計算なのか、それとも自然な成り行きなのか、勝也には何ともいえなかった。
その時に見た紀子の顔がまるで猫のようだった。夜の帳の中に街灯だけで照らされた閑静な住宅街、一人でいれば怖さを感じるようなところで、普段とは違う表情を見せた紀子に少し気持ち悪さを感じた。
いつも勝也のことを先に考えてくれる紀子だったが、その時ばかりは、まるで猫のように自分のことだけを考えている顔をしていたのだ。それから紀子の顔を見るたびに、猫を思うようになった。
猫というと特徴的なのは目である。明るいところでは、まるで狐のように目を細めてキリッとした視線になるが、暗いところでは大きく開いたその目が光っているかのごとく普通なら見えないものまで、すべてが見えてしまっているのではないかと思えるくらいだ。
紀子のチャームポイントは目である。あどけなさの残った顔に似合っているのが一重瞼だと思っている勝也は、初めて見た時に紀子を好きになった理由として一重瞼が気に入ったと思っている。少し切れ長で細い目はまるで明るいところで見る猫の目ではないだろうか。すぐにはそのことに気付かなかったが、猫の雰囲気を最初に紀子に感じたのも彼女と最初に視線を合わせた時だったに違いない。
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次