短編集35(過去作品)
「ええ、これでも前は主婦をしていましたのよ」
とあどけない素振りでおどけてみせるが、エプロン姿が実によく似合い、本当に自分の奥さんになってくれたような気分になる。
蛍光灯を変えたわけでも、照明を増やしたわけでもないのに、部屋が明るくなった。明るくなったばかりか、一番ほしかった暖かさまで部屋の中に充満している。テレビはついているがブラウン管に集中するということもない。紀子の顔を見ながらの夕食は感無量だからである。
後片付けを済ませる間に、勝也がシャワーを浴びる。シャワーが終わってベッドに入るのと同じ頃、洗い物を終えた紀子がゆっくりと寝室へとやってくる。
一LDKの部屋なので、寝室といっても、机が置いてあったりするが、電気を消してしまえばそんなことは関係ない。
すでにテレビの音は消えていて、部屋はシーンと静まり返っている。シーツの衣擦れの音が聞こえるくらいで、紀子が入ってくると、紀子の息遣いをハッキリと感じることができる。
勝也自身もそれだけで興奮度が増してくる。抑えようとしても紀子に聞こえるだけの息遣いをしているに違いない。もちろん、息遣いを抑えようなどという思いは毛頭ない。お互いの息遣いが響く部屋は真っ暗で、湿気を帯びた重たい空気が充満していた。
表はかなり寒くなっているに違いないが、部屋の中だけは汗を掻いてしまいそうなほどの蒸し暑さだ。しかしその蒸し暑さは気持ちの悪いものではなく、お互いを求め合うための前儀にも近いものである。
しなだれを打つようにベッドになだれ込んでくる紀子、身体にはベットリと汗を掻いていて、さっき浴びたシャワーで気持ちよくなっている身体にベッタリとへばりついてくる。
もちろん気持ち悪いと感じるわけではない。一瞬冷たさを感じるが、すぐに熱くなってくる。身体の密着が空気の侵入を許さないほどに、妖艶な身体の動きに酔ってしまう勝也だった。
すぐに紀子の身体も乾いてきて、紀子の口から出る吐息が激しさを増す。
普段の声から一オクターブほど低い声であえぐ紀子の本当の声は、このトーンの高さではないかと思わせる。普段の声の方が裏声なのだ。
低い声も好きである。ハスキーボイスが男性の性欲を駆り立てることは今までの経験からも分かっている。どちらかというと低いトーンのあえぎ声の方に興奮を感じる勝也は、
――年上の女性が好みかも知れない――
とまで感じたことがあるほどだ。
今までに付き合った中に年上がいなかったわけではない。だが、それも後から聞いて分かっただけで、むしろ態度は幼さが残っていて、あどけなさを気に入ったのが最初だったのだ。最初から好んで年上を求めていたわけではない。きっとベッドの中で感じている思いは自分の中にいるもう一人の自分が感じていることに違いない。
――紳士でありたい――
これは勝也ならずとも、男性なら誰でも思っていることかも知れないが、特に自分では他の人よりもその思いが強いと思っている。実際に知り合った女性に自分のどこを好きになったか聞いた時、
「あなたの紳士的なところ」
と言われて、嬉しく思ったことが何度あったことだろう。今から考えただけでも二度や三度ではなかったように思う。
紀子が自分の部屋に勝也を招くことは一度もなかった。従順なだけにじっと見つめられたら逆らうことができない。一度行ってみたいと思う気持ちを持ちながら、せっかく従順な紀子の気持ちを壊したくないという気持ちから逆らうことができない。
――まさか、紀子の計算ではないかー―
とあまりにも従順すぎるところに疑念が湧いてくる。
考えすぎるところがあるのが勝也の悪いところである。深刻に考える必要もないのに考え込んでしまって、考えなければならないところが疎かになる。それだけに、
「やつはしっかりしているようで、意外と抜けたところがある」
と言われたりすることがあった。
――しっかりしているところがあるという方が少なく、抜けてるところの方が大きいのかも知れない――
と思い、時々大きく抜けることがあって、それが目立つだけに、「意外と」という言葉が引っかかる。
判断力が鈍いのだ。すべてはそこから来ている。咄嗟の判断が鈍いから、何かあった時に慌ててしまって、普段しっかりしているつもりでも真っ白くなってしまった頭を元に戻すことは容易ではない。
どうしても普段からビクビクしてしまう。普段からビクビクしている理由にはもう一つあって、
――まわりの人は自分よりも優秀だ――
という意識が消えないところだ。
それは咄嗟の時の判断力に限らず、自分にできないことをすべて他人はできると思ってしまうことが多いからで、そのくせ自分にできて他の人にできないことを発見すると、必要以上に自分の才能に酔いしれてしまう。
他の人がどこまでそんな勝也の性格を分かっているか定かではないが、元々が分かりやすい性格なので、自分で考えているほど、人の目はシビアなのかも知れない。
自分の性格で嫌いなところはいくつかあるが、大きく言えばこの二つだろう。離婚の原因がこのあたりに隠されているのではないかと感じながら、それを必死で否定している自分もいる。もし本当にそうであれば、今さら治すことのできないと思っているだけに、妻との思い出を、どうすることもできないやるせなさで残すことになる。
自分ばかりを深く考えていたが、紀子のことも次第に考えるようになっていった。
あれだけ従順な紀子が時々見せる寂しげな雰囲気、妙な懐かしさを感じるのは、別れる前の妻に微妙な雰囲気が似ているからだ。どことなく孤独感を感じているのは、何かに耐えた者でしか感じることのできない感覚のように思える。それでいて圧迫から逃れられた開放感をあらわにしたようなすっきりした面持ちに、安心感を感じる時もある。
「君には僕と同じ寂しさを感じることができるんだ」
というと、
「黙っているつもりはなかったんだけど、私も離婚暦があるの。あなたと同じ」
初めて明かされた時だった。すっきりした顔が印象的だったが、同じ気持ちになることができると思った勝也はその時、自分でできる最高の笑みを紀子に返したつもりである。
紀子にも気持ちが通じたのか、薄っすらと頬を濡らす涙が光っていた。顔は若干上気していたが、潤んだ目は輝いていたように見える。また一歩お互いに近づいたことに気付いた瞬間だった。
その日にお互いを求めたのは言うまでもない。透き通った肌が若干濡れていて、すぐに乾いたのは、きっと熱く火照った勝也の身体に触れたからだろう。勝也の身体も汗を掻いていたはずである。気がつけば乾いていた。
しかし、紀子にはまだ何らかのわだかまりがあるようだった。考えてみれば離婚など珍しくも何ともない昨今、それを隠していたことでこれほど寂しそうな顔をするはずもない。付き合っている相手が独身ならまだしも、離婚経験のある男性なら何もそこまで気にすることでもないはずだ。次の日に会った紀子はニコニコしながらも、どこか寂しそうな雰囲気を隠し切れないでいたのだ。
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次