短編集35(過去作品)
もう会えないことを半分覚悟の上でのメールだった。このまま放っておけば自然消滅だっただろうが、それではあまりにもと痺れを切らせたのだった。
「もう会わない方がいいと思うの、本当にあなたといて楽しかったわ」
という返事が返ってきた。
何となくホッとしたのはなぜだろう。彼女とは身体の関係にはなっていない。唇を重ねることすらなかった。やはりどこか勝也の中でわだかまりがあったのかも知れない。
それがこの三年間での一番の出会いだっただろう。
出会いかけていたこともあったかも知れない。だが、わだかまりが消える前に自分の殻を作ってしまったことを自覚してしまった勝也の中にもう一人の自分がいることに気付き始めた。
それは寂しくて仕方がない自分である。普段は暗く煩わしいことが嫌いな目立たない男なのだが、そんな自分を見ていて情けなく感じている自分。精神的なものよりも肉体的な寂しさを解消したくてたまらない自分、どちらが本当の自分なのだろう?
どちらの自分も極端である。どちらかしか表に出ることができないのであれば、まだ暗く煩わしいことが嫌いな目立たない自分の方がいいのかも知れない。その方がまわりから見れば問題ないはずだからである。
だが、目立たない人ほど一旦気になってしまうと頭から離れないものだ。会社の通勤途中で誰かに見つめられている視線が勝也に突き刺さるように感じることが時々ある。その視線の主が誰なのか気にはなっていたが、突き止めようという気持ちにならなかった。それだけ暗く目立たない性格が身体に沁み込んでいるのかも知れない。
――もう人との出会いを期待するのはやめよう――
出会いたいという気持ちが惰性になりかかっていることに気付き始めると、無理してやめようと思わなくなってきた。そのうちに一人でいることに違和感がなくなり、自分の時間を大切にしようと思うようになった。
これは離婚して最初に感じた感覚だった。いつの間にか出会いを求めるあまり忘れてしまっていた思いであるが、紆余曲折を繰り返すうちに、また最初に戻ってきたのだ。
そういえば将棋を指す人に聞いたことがある。
「一番隙のないのは、最初の形なんだよ。一番最初が緊張するのも当たり前、最初に打つ手ですべてが決まってしまうといってもいいくらいだからね」
「減点法のテストを受けているみたいですね」
「そうだね。うまいことを言う。まさしくその通りだ」
最初の頃に気持ちが戻ったということで、また気持ちに余裕が戻ってきた。その間を、
――無駄な時間だった――
と思うか、それとも、
――いい経験をした――
と思うかで考え方も変わってくる。少なくとも気持ちに余裕があるのを自覚している以上、後者なのだろう。
そんな時に出会ったのが紀子だった。
紀子を最初に見た時、何かを感じたわけではない。綺麗さや優しさが表情に表れているわけでもなく、どこにでもいるような女性だった。しいていえば、
――影がありそうな女性だ――
というイメージが残っただけで、二度と出会うことのないはず人の一人だっただろう。
何しろ最初にどこで見たかを覚えていない。
――あれ? どこかで見たはずだ――
と感じたのも偶然だったに違いない。相手と目が合った時、お互いに目を逸らそうとしたことが妙におかしかった。思わず吹き出してしまい、押し殺した笑いを耐えながらこちらを見つめている彼女とまた目が合うと、頭を下げて挨拶していた。
その場所が喫茶店だったというのも、勝也に席を立たせる勇気を与えたようだ。お冷と呑みかけのコーヒーカップを持って彼女の席に移動した時、一度も視線を逸らすようなことはなかった。却って、勝也の方が一瞬戸惑ったくらいだ。
紀子と話をしていると猫のような雰囲気を感じさせられた。背が女性にしては高く、そのせいかあまり姿勢がいいとはお世辞にもいえない紀子なので、猫背なところが猫を思わせるのかも知れない。
甘えん坊に見えるところがあるのだが、決して本心を明かそうとはしないところがある。もちろん初対面の男性に最初から馴れ馴れしいというのもおかしな話だが、そのわりに甘えてきそうな雰囲気を醸し出している。
「あなたは犬派ですか? それとも猫派ですか?」
と聞かれれば、
「犬派です」
と間髪入れずに答えるだろう。大体さまざまな人間の性格を犬か猫のどちらかに決めろというのもナンセンスな話で、ABO式の血液型四種類よりもさらに厳しいものである。
よく言われるのは、
「猫は家につき、犬は人につく」
と言われる。犬は人に従順で、猫は甘えん坊である。そのことを踏まえたうえで、
「あなたは犬派ですか? それとも猫派ですか?」
という質問をされて出てくる答えは、自分の願望が多分に入っているだろう。好き嫌いといってもいいかも知れない。
今までに好きになった女性は犬の雰囲気の多い女性が多かった。しかし、それが間違いだったのではないかと思うのは別れた女房を考えた時である。うまくいっている時は間違いなく犬派で、従順に違いなかった。しかし別れが決まった時というのは、甘えのない猫そのものだった。気持ちは勝也から離れ、自分の世界に入り込んでいた。
何事も二つに分けて考えるタイプはお互い様だった。スパッとした性格といえば聞こえはいいが、どこか冷めたところもあった。気持ちのサイクルが一致している時はいいが、一旦狂ってしまうと修復に難しいだろう。そのことに先に気付いたのが女房だった。理由をハッキリと言わなかったのも、
――どうせこの人に話しても分かるはずはない――
と思ったからだろう。何しろ女房は勝也の気持ちを透かしたように分かっていた。それだけに駄目だと思ったら決断も早かったはずだ。意外と男性はいつまでも思い出を引っ張る人種のようで、女房のような女性にはじれったかったに違いない。
紀子という女性は、猫の雰囲気はあるのだが、従順でもあった。そんなところが魅力なのかも知れない。紀子も離婚経験がある。離婚について深く話したことはないが、性格の不一致による離婚というのは、きっとどちらが悪いというわけでもないが、どちらにもそれなりの非があるという意見を話してくれた。
目からウロコが落ちたような気がした。
自分だけが悪いと思って自分ばかりを責めていては分からないことがある。しかしお互いに非があると言われれば少し広い目でまわりを見ることができるような気がして、それならば考えようもあるというものだ。一言一言が勝也の胸をつく、紀子とはそんな女性である。
だが、普段の会話は他愛もないものだ。最近では勝也の部屋にいつもいて、まるで押しかけ女房のように身の回りの世話を焼いてくれる。実に献身的な態度に、
――ここが従順な雰囲気なんだな――
と感じさせられるところなのだ。
仕事が終わってから帰ってくるのが楽しみで、今までよりもさらに空腹感を感じながらの帰宅になる。
部屋の扉を開けた瞬間、どんな香りが鼻を突くかが楽しみだ。いつも違った香り、洋風ソースの時もあれば、和風てんぷらの香りだったり、中華だったりと、毎日の食欲を満足させてくれるに値する香りである。
「料理、上手だね」
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次