短編集35(過去作品)
だが、気にすることもなかったのである。父の四十九日の法要が終わる頃には、すっかり元気になっていて、次第に気丈なくらいになっていく。まるで死んだ父が乗り移ったかに思えるほどの気丈さに最初は心配したほどである。しかし、そこに無理がないと思った時に、父の考え方も間違いではなかったことを感じた。しっかりと母は父を見ていたのである。咄嗟の判断力や、その時々の考え方。きっと父から学んだものだったに違いない。
結婚を決意して、その気持ちを母に話した時のことだった。元々、茜と付き合っていることは父が生きている時からの公認であったので、母にしてみれば今さらだっただろう。今考えれば、病の床に伏せっていた父は、かなり丸くなっていた。茜の顔を見て、優しく微笑んだ顔が印象的だった。そんな父もしばらくして亡くなったのだ。
「大丈夫、私は一人でもやっていけますよ」
「本当に大丈夫なのかい?」
「ええ、もちろんよ。お父さんと二人ですからね」
と言って、父の遺影を見つめた。
その横顔を見た時、
――これなら大丈夫だ――
と感じたのは、ろうそくの炎に照らされた横顔に優しい笑みが零れていたからである。目がキラキラ煌いているように見えたのも気のせいではあるまい。
それから数日してからだった。母が写真を集め始めた。父がある程度整理してくれていたので、それほど苦にもならなかったようだ。
「お父さんは、自分の命がそう長くないことを知っていたのかしらね」
「どうしてだい?」
「だって、趣味のカメラもずっとしていなかったのよ。あなたが中学に上がる頃くらいからお父さんは仕事が忙しくなって、それこそ出張ばかりだったでしょう。それなのに、思い立ったように写真を集めたりして……。それからまもなくなのよ。お父さんが病に倒れたのは」
そういえばそうだった。中学の頃など、父が帰ってこない日が多かった。だが、それもいればかなりの存在感、ずっといたような錯覚に陥っていたようだ。
母は父の夢を見るのだろうか?
私が父の夢を見ることはあまりない。まったく見ないわけではないが、父の夢を見る時、必ず女の子が出てくる。小学生くらいの小さな女の子だが、綺麗な服を着ていて、まるでピアノの発表会に出るような服装である。
女の子に覚えはない。しいて言えば、小学校時代の同級生に似たような娘がいたのかも? という程度で、要するにどこにでもいるような普通の娘だった。
――私の好きだったタイプ――
であることには違いない。あまり自分から話すタイプではなく、私が歩いていれば後ろから黙ってついてきてくれるような女の子が好きだった。夢に出てくる彼女はまさしくそんな感じで、じっくりと見詰め合ってみたかったが、私に気付いていないようだ。きっと客観的に見ているだけで、私は夢の中に登場していないのだろう。そんな夢も結構あり、自分が主人公として登場している夢でさえ、客観的に見ている私がいるのだ。
それは昔から分かっていた。主人公である自分の行動に疑問を持ったりして色々とアドバイスしようとするのだが、夢の中ではまったくの別人。話しかけても、通じないことが往々にしてあるものだ。
しかし、父とその女の子の夢に私が登場したことはない。不思議と母が登場することもなかった。女の子の表情は最初、穏やかである。穏やかと言うよりも無表情。感情がない人形のようである。
その表情が徐々に歪んでいく。ビックリしている暇を与えてくれないほどに、徐実に変わっていくのだ。
背景が次第に黄色掛かっていって、目の前の景色にもやが掛かっているかのようだ。
私は時々鬱状態に陥ることがある。そんな時に感じるのは、目の前が黄色掛かって見えることで、黄色が急に晴れて見える時もある。だからといって、鬱状態から逃れたわけではなく、あくまでも一瞬なのだ。
女の子が助けを求めている。私を見つめるように求めているのは私が見えているからだろうか?
いや、そんなはずはない。あくまでも私は客観的な目を持っているだけで、決して夢の中の人には見えるものではない。
父が幼児虐待をしている。ものすごい形相をしていて、私にもしたことのない顔だ。そんな顔を見ていると、目を逸らしたくなる。しかし、悲しいかな、夢の中では目を逸らすことは不可能だった。
――あれが私の父なんだ――
そう思うと、却って今見ているのが夢であることを確信してしまう。それだけインパクトが強く、思わず叫んでしまいそうになる。
「お母さん」
その瞬間に目が覚めるのだろう。気がつけば、汗をグッショリ掻いていて気持ち悪い。そんな夢を見る時は不思議と夜ではない。布団の中で見る夢と違い、うたた寝をしている時が多い。眠っている時間も中途半端なので、目覚めも悪く、決まって頭痛を伴うのだ。それだけにあまり父の夢を見ることがないのだ。
だが、いつも同じ夢を見ているような気がする。それにしても、あの父の形相は、実際には私の知らない父である。夢というものが潜在意識の見せるもので、意識にないことを見せることがないとすれば、この夢は一体何なのだろう?
実際に父が母に暴力を振るっているのを見たことがあった。私が小学生の頃、父の母への仕打ちはすごかった。子供心に、
――どうしてそこまで憎めるんだろう――
と感じたものだ。同じ家に住んでいて、一緒に暮らしているのに、仲良くできない二人が信じられなかった。ちょっとしたことでも、父に逆らいたかったのは、凶暴な父を目の当たりにしたからだろう。しかし、逆らうことのできない立場にいる自分が悔しくもあった。
父に何か言われるたびにビビっていた自分が情けなかった。確かに父のいうことは正論で、口答えなどできるわけもない。必要最小限のことしか言わない父の言葉には重みがあり、私の言葉など、軽く吹き飛ばされそうだった。
父のことを思い出したくもないくせに、忌々しい夢だ。きっと最初に見てしまってから、その夢が私の中にトラウマを残したに違いない。逃れられない運命のようなものを感じるが、もう父はこの世にいないのだ。生きていれば、それなりに見方が変わっていったことだろう。しかし、いない以上、それ以降の進展などありえないのだ。永遠に私の中で、トラウマとして残った父が生き続ける。それは父の夢を見ている時だけではない。母の夢を見る時にも、思い出してしまうのだ。
そういえば、父の笑顔で印象に残っている笑顔というのもあったような気がする。あれはまだ私が小さかった頃だった。見た瞬間に金縛りにあったかのような妙な気持ちになったものだ。それは私に対しての笑顔ではなく、母に対してのものだった。
それまでの父というと、厳しさだけが表に出ていて、冗談の通じるような相手ではないと思っていただけに、まさに青天の霹靂である。
「正志、動物園に行こうか?」
「うん、行きたい」
こんなことを言い出す父にビックリしながらも、無意識に母の顔を見つめた。
「ええ、それじゃあ、皆で行きましょう」
母の顔も微笑んでいる。そんな母の顔を見たのは久しぶりだったので、私も嬉しくなっていた。
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次