絵の中の妖怪少年
と、感じると、足の疲れがスーッと抜けていくのを感じた。
足の疲れが抜けてくるのと同時に視力がよくなったような気がしてきた。
――あれが、話にあった喫茶店かしら――
さっきまで、まったく見えていなかったと思っていた目の前の世界が開け、店が見えてきたことで、それまでの意識とはかなり違ってきたのを感じたのだ。
元々、香澄はあまり視力のいい方ではない。遠くに見えていた木がなければ、そこに道が通っているということも分からずに、ただ、目標もなしに、ただ歩いているという、疲れが溜まるだけの展開になっていたことだろう。
しかも、歩いても歩いても、目的地はおろか、中間地点までも、近づいているという気配を感じない。
まったく変わることのない風景をまわりに感じながら歩いていると、得てして、距離的な感覚がマヒしてしまうものだが、特に田舎の風景には、まったく感じるものが何もないことで、疲れだけが残ってしまうという、
「暖簾に腕押し」
のような効果があるに違いない。
それでも、目的地が見えてくると、それまでの疲れが一気に引いていく感じがするのも、その時でなくとも分かるような気がした。
――以前にも、同じようなことを感じたことがあったのかな?
それがいつのことだったのかハッキリとは思い出せないが、小学生の頃だったのは分かっていた。歩いていて懐かしさを感じたことでも、目的地が見えたことで疲れが消えていったのも分かる気がした。
――この光景自体が、癒しになっているのかも知れないわ――
と、気分転換よりも癒しの方を感じた香澄だった。
香澄にとって、子供の頃のことを思い出すのは久しぶりだった。
今なら、短大の頃のことは結構思い出すことはあるが、それ以前のことを思い出すことはない。短大時代には、高校時代や中学時代のことを思い出すよりも、小学生の頃のことをよく思い出していた。
――どうして、中学、高校時代のことを思い出さないのだろう?
思春期だったはずなのに、香澄は思春期らしい思い出として、インパクトのあるものはほとんどなかった。
確かに好きな男の子がいたり、男の子から告白されたりしたことはあったが、すべてのタイミングがうまくいかなかった。好きな男の子からは見向きもされず、好きでもない、むしろ毛嫌いしてしまいそうな男の子から告白されるのだ。タイミングが悪いと思っても無理もないことであった。
暗い時代だったと言っても過言ではないが、好きな男の子から告白されなかったり、嫌いな男の子から告白されるというのは、香澄に限ったことではないだろう。それなのに、香澄はタイミングの悪さを嫌な思い出として頭の中に残してしまった。忘れることもできたであろうに、敢えて忘れようとせずに、記憶の中に残したのだ。
「どうしてなの?」
自問自答してみたが、自分の中から答えが返ってくるはずもなく、暗い時代のイメージは、意識の中で通り越し、次に感じるのは、小学生の頃のことだった。
小学生の頃に、
――癒し――
などという言葉を意識したことはなかったが、その場所が憩いの場のような気分になっているのを感じながら、地平線の延長線上に沈む夕日を見ていたのを思い出していた。
――身体のダルさが、心地よさを運んでくる――
ということを、初めて感じた時だったような気がしていた。
元々、身体のダルさを感じる時というのが、夕日が沈む時だというのは、小学生の頃から感じていた。ちょうど空腹時であり、一日の疲れのピークを迎えるタイミングが夕方だったということもあり、余計に身体のダルさが、夕日を連想させる影響を持つようになっていたのだ。
香澄が夕日を感じている時というのは、汚染された空気を感じていた。
――まるで砂が混じっているようだわ――
砂混じりの空気は、呼吸困難を引き起こし、身体のダルさだけではなく、喉の痛さをも同時に感じさせた。ただ、咳が出たりするわけではなく、息が絶え絶えになっていくのを感じるだけだった。
さらに今回は、夕日ではないのだが、交差点の横に生えている木の枝の間から差し込んでくる日差しが、まるで小学生の頃に見た夕日のように、砂混じりの空気を感じさせた。それは風によって引き起こされる光の角度の微妙な違いが、目に差し込んでくるタイミングを若干狂わせることで、身体に疲れではない「ダルさ」を植え付けているのだった。
身体のダルさが目から来るものだと知ると、なるべく、光を見ないように歩くことを心掛けた。だが、目指す喫茶店は、白壁であることが分かると、喫茶店自体も、直視できないと思った。それでも何とか近づいて店内に入ると、中は表の明るさとは反対に、木目調になっていて、それまで感じることのなかった湿気を、感じないわけにはいかなかった。
その日はまだまだ寒さの残っていた日で、駅に着いた時も、
「寒い」
と、思わず叫んでしまったほどだったのだが、歩いているうちに次第に汗を掻いてきたのか、それとも、日差しの強さのせいなのか、次第に背中に汗が滲むのを感じていた。
夏の時の汗と違い、不快感があるわけではないが、身体が汗に馴染んでくると、冷えてくる汗に身体が反応してしまい、震えが止まらなくなるのではないかと思えてならなかった。
午後に入って少し時間が経っていたが、店の中の客はそこそこだった。表には十台くらいの車を止めるスペースがあるが、止まっているのは、二、三台だったので、店の中の様子は想像ができたが、思ったよりも多かった。
店の中に入ってまず感じたのは、
――表から見ているよりも、中がこじんまりとしている――
ということだった。
本当なら、まわりが雄大な景色なだけに、表から見える店の全体像は、実際よりも小さく見えてしかるべきだと思う。だから余計に中に入ると、思ったよりも広く感じられるものだと思っていたが、実際には、表から感じた中の広さに比べて、実際に中に入ってみると、さらに小さく感じられるから不思議だった。
ただ、湿気を帯びている分、身体に纏わりついてくる汗が気だるさを誘い、そのせいでこじんまりと見えているのかも知れない。
まず、普段なら店に入ってから、店全体を見渡すようなことはしない。せめて、軽く見上げる程度で、天井の高さを意識するなど、今までであれば考えられないことだった。
――あの時、もう少し上を見ておけばよかったかな?
天井を気にはしていたが、店がこじんまりとしていることを意識できれば、それ以上見ようとはしなかった。中途半端な気持ちだったのである。
ただ、天井をもっと気にしておけばよかったと思ったのは、それから少し経ってからのことだった。何日も先のことではなく、それから数時間後のことだったのだが、まだその時は、まったく気にもしていなかったのだ。
喫茶店での自分にとっての指定席は、きちんと空いていた。ほとんどの客がテーブル席に座っている。二人連れの客以外にも一人の客もテーブル席に座っている。カウンターに座る人はいないので、どの人が常連なのか、分からない。
――そもそも常連などいるのだろうか?
と思ったが、すぐに打ち消した。