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絵の中の妖怪少年

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 確かに、もっと他にも演出を凝らしていたのかも知れない。だが、マスターはそのことを香澄には言わなかった。言ってしまうと、せっかく凝らした演出が、紙きれのような薄っぺらいものになってしまうような気がしたからだ。
「マスターは、この絵をどこで手に入れてきたんですか?」
「最初は、店に飾る絵を数枚買えばいいと思っていた程度だったんですが、クラシック喫茶にしようと考えた時、すぐにこの演出が最初に浮かんできたんです。絵を見ていると、吸い込まれるような感覚になってきたって感じですかね」
 遠くを見るような目で、懐かしそうにしているマスターに向かって、
「えっ、そうなんですか? てっきり私はマスターが最初からクラシック喫茶にするつもりで店を構えたと思っていました」
「違うんだよ。最初は普通に明るいお店にして、店内でクラシックを流すつもりでいたんです。ただ、こだわりがあったのは、店の壁を赤レンガにしたいという思いだけだったんですよ。でも、赤レンガを見ているうちに、次第に内装を暗くしていきたいという発想が生まれて、それでこんなムードを大切にするお店にしたというわけです」
「でも、絵は最初から今飾っているような感じの絵を買ってくるつもりだったんですか?」
「ええ、絵に関しては、明るい店でも暗い店でも、私が好きな絵を飾るつもりでしたから、そこは意識していませんでした。暗い店にも結構映えていると思っているんですよ」
「もちろん、私も素敵だと思います。でも、お話を聞くまでは分かりませんでした。やっぱり確かめて見るものですね」
 と、香澄は自己納得したのだった。
 真っ暗な部屋の中で、額縁を少し前のめりにするように下部を固定し、そして、上部を紐で引っ掻けるようにする。そして、その後ろに明かりをつければ、まるで額縁から後光が差したように見える効果を用いていた。
 さらには、同じやり方で、額縁の裏を透明なガラスのようなもので固定すれば、今度は絵自体が浮き上がったように見える効果があった。
 マスターはこの二つをうまく利用していたようだ。
 絵自体が浮かび上がるやり方は、あまり絵に対して評価が薄いものを当てていた。絵自体を浮き上がらせる効果は、評価の高い絵に対しては逆効果である。せっかくの絵が死んでしまうからだ。
 逆に絵に自信のあるものは、額縁に後光が差すことで、絵をさらなる高貴なものへと変えることができる。
 マスターの思惑は見事に成功した。香澄も店の常連となったのは、その手法にも感嘆したからだった。
 真澄以外の客も、やはりマスターの手法に感嘆していた。実際にその手法について分かっている人がどれほどいたのか分からないが、よく見ると、どのような手法を凝らしているかということはすぐに看破することができる。
 しかし、わざわざ看破する人がいるだろうか?
 人というのは、
「知らない方がいいというものを、無意識に悟ることができるものだ」
 ということを、香澄は何かの本で読んだような気がしたが、どの本だったのか、忘れてしまった。難しい心理学の本など読むことのない香澄だっただけに、たまに忘れた頃に読むミステリーだったのかも知れない。
 香澄は、読書は嫌いではないが、あまり集中して読む方ではない。
 急に読みたくなって、本屋で物色した本を読むこともあったが、
――同じ作家といえど、この本以外の小説が面白いとは限らない――
 という思いからか、一冊読めば満足する。続けて本を読むというのは、稀なケースだった。
――そういえば、前に読んだ小説の中で、喫茶店を舞台にしたものがあったな――
 というのを思い出した。
 喫茶店をいかに盛り立てていくかというのがテーマだったが、その本を、喫茶店の中で読むというのも皮肉なものだった。
 その小説を読んだのは、クラシック喫茶ではなかった。もっと明るいところで、その小説を読み始めてから読み終わるまで、その喫茶店に通った。数回だけだったが、行かなくなってからしばらくはあまり意識していなかったが、数か月経ってから、その喫茶店が思い出として意識されるようになると、月日の経過の指標としての思い出というものが存在することに気が付いたのだ。
 その本は、自分で決めた喫茶店でしか読まなくなったのは、その時からだ。自分の家や学校、あるいは、移動中に読むことはなかった。なぜそうなったのか、自分でもハッキリとはしないが、喫茶店の利用価値が自分の中で固まったのは事実だった。
 そういう意味で、クラシック喫茶以外の喫茶店で、コーヒーを飲むだけのために立ち寄ることはなくなった。本を読むというのも一つだが、勉強したり、何か自分の目的がなければ寄ることはなくなったのだ。
 逆にクラシック喫茶では、何もしない。クラシックを聴きながら、ただ壁に掛かった絵を見るだけだった。他の喫茶店とはまったく利用価値の違うこの場所は、香澄にとって、
――喫茶店であって、喫茶店ではない――
 と思うようになっていた。
 ただ、喫茶店の利用価値は、学生時代までだった。
 社会人になってからは、喫茶店の利用目的に、
――朝食を摂る――
 というのが加わった。
 もちろん、朝食を摂りながら新聞を読んだり仕事で使う資料を読んだりしているので、朝食を摂りながら他のこともしていたりする。だが、本来の目的は朝食を摂ることなので、やはり、目的が加わったということには変わりはない。別に喫茶店の利用目的が自分の中の信念だったわけではないので、それほど気にすることではなかったが、それでも、どこかに一抹の寂しさを感じた。
――社会人になるというのは、何かをなくすことになるというのは、本当のことなのかも知れないわ――
 と、以前就職活動中に企業訪問で訪れた先輩が話していたのを思い出した。
 喫茶店のことなどは、些細なことなのだろうが、香澄にとっては、それほど些細なことではなかったのだ。
 朝食を摂ることが加わったおかげで、喫茶店を気分転換に使う時間は減ってしまった。会社に入ってすぐの頃は、喫茶店を気分転換に使うこともあったが、今ではほとんどなくなった。今回、出先に出向くことで喫茶店を利用するというのは、久しぶりに違う店に行くことができて、一種の気分転換のように感じられた。この気持ちは、まわりの環境が田舎であればあるほど、強いものになってきそうだった。それだけ普段自分が都会に染まりきっていることを意識している証拠であろう。
 横切る道と交差しているところが近づいてくると、その向こう側の景色が次第に明らかになっていった。
――ここまで、だいぶ歩いたわ――
 どれくらいの時間が経ったのか、ハッキリとは意識していなかったが、歩けども歩けども目的地に近づいたという意識がない中での疲れは、結構溜まってくるものだった。それでも疲れが身体に馴染んできたかのように思えて来た時、さっきまであれだけ遠く思えていた横切る道との交差点が、目の前に見えてきたような気がした。
 遠くに見えていた木が、見上げるところまで近づいたのを感じると、
――いつの間に――
 と、一気に近づいたことを感じる。
 ここまで近づいてくると、思わず時計を見てしまう。
――さっきから十五分しか経っていない――
作品名:絵の中の妖怪少年 作家名:森本晃次