絵の中の妖怪少年
かといって、完全に暗くなるわけではない。ある程度は見えている。しかし、それが全体を想像させるものではないことは分かっていた。
――一体、何を感じさせようというのだろう?
そこには他力が存在し、自分の発想も、本当に自分の意志だけで妄想した世界なのかを疑いたくなってきた。
香澄は、今まで「遺伝」など考えたことがなかった。
いや、考えたことがなかったと思っていただけである。本当は、いつも最初に感じることは「遺伝」という言葉であり、考えてしまったことをすぐに後悔し、すぐに打ち消していた。だから、考えたことがないと自分で思うようになっていたのだ。
どうして、打ち消そうとしたのかというと、それだけ自分が両親と似ていたくはないという思いがあったからだ。
厳格な父親には、融通の利かない発想を、そして、それに逆らうことのない母親には、絶対的な弱さを感じていたからだ。
融通が利かないだけならまだいい。それを相手に押し付けようという考えは、香澄の中で、どうしても許せないことだった。反動という言葉だけで納得させられるものではない。なぜ、そんな発想になったのかというと、
――自分にも、融通が利かないところがある――
と感じるからだ。
特に中学生の頃など、
「あなたのような頭が凝り固まった考え」
と、何度言われたことだろう。
中学に入った頃の香澄は、自分が目立ちたい一心からか、結構発言に積極的だった。ただ、その積極性が裏目に出て、まわりに気を遣わない様子に見えたことで、自分の考えを相手に押し付けようとするところがあった。
そのことは意識していたが、まさか頭が凝り固まった考えを指摘されるなど、想像もしていなかったのだ。
それを思うと、
――どうして、そんな風に見えたのか――
ということよりも、自分が想像もしていなかったことを指摘されたということにビックリしていた。
そのせいもあってか、香澄は人から何かを言われると、急にムキになることが多くなった。
「何を急に怒り出したりするのよ」
と、言われてハッとすることもあった。もっともそのことで、
「香澄は融通が利かない」
と、言われるきっかけになったのだが、本人は、どうして融通が利かないと言われるようになったのかということを分かっていなかった。
――一番言われたくない言葉だわ――
という発想が一番強く、その言葉が、自分の一番嫌いな父親への自分の気持ちであることに、すぐに気付かなかった自分に対し、後になってから情けなく感じられるようになった。
それから、香澄はあまり前に出ないような性格になった。
「出る杭は打たれる」
という言葉を思わせるような典型的な行動だっただろう。まわりの人は急に前に出なくなった香澄に対し感じたことは、
――杭に打たれたからだ――
ということであったことは、間違いないだろう。
ただ、その頃にもう少し、遺伝というものを意識していれば、少しは違ったかも知れない。妖怪少年などという厄介な発想を頭の中に抱くこともなかっただろう。
妖怪少年の話を他の人も知らないとは限らない。香澄も教えられた伝説だったからだ。
だが、香澄が感じる妖怪少年への思いは、他の人とはまったく違っているはずだ。確かに、何かを感じるのに、人の数だけ発想があるというのも当たり前のことだが、それにしても、他の人の意識している内容ほどであれば、ここまで頭の中に残っていて、話を聞いてからかなり時間が経っている大人になってからも思い起すというのは、それだけ深いところまで連れて行かれている証拠ではないだろうか。
最初に店長を見た時、確かに何かを感じたが、それは決して嫌な思いではなかった。ただ、どこか他人ではないような気がした時、
「嫌」
と、反射的に否定してしまったのを思い出した。
そこまで反射的に反応するということは、元から何かを予感していなければできないことだろう。同じ反応するにしても、意識していなかったことに反応する態度とは、まったく違っていたと思ったからである。
この喫茶店が、
――絵の世界と直結しているのではないか?
と、感じたのは、香澄がマスターのことを考えていた最中だった。
何かを発展させながら考えている時、他のことを思いつくなど今までにはなかったことだ。ということは、新しく発想したことは、発展させながら考えていたことと、さほど違った考えではないということを示唆しているように思えてならない。
香澄はこの喫茶店に来たことを偶然のように思っていた。だが、何かに導かれたのだとすれば、絵の世界への発想が、妖怪少年に結びついて、さらに、何か悟らなければいけないことがあり、それが今なのだということを感じたのだ。
「マスターは時間が止まっちゃったみたいなの」
と、彼女は口走った。
「どういうことなの?」
香澄は、驚いたように彼女を見た。
「私、きっと将来、マスターと結婚することになると思うの。今のマスターが好きで好きでたまらないから……。でもね、あの人は途中で人が変わってしまったようになるのよ。それでも私はいいの。ずっとあの人のことを待っていたんだから」
彼女は、遠くを見つめるような目で呟いた。
「マスターの時間が止まったというのは?」
「私も、この前まで時間が止まった世界にいた記憶があるので分かるんだけど、時間が止まってしまうと、その間は、時間が限りなく止まって見えるのよ。でも、実際には動いているの。その狭間に、人間というのは、いつか一度は落ち込むことになると思うのね。私はすでに落ち込んだ。あなたもきっとそのうちに落ち込むと思う。でも、その世界から元に戻れる人もいれば、戻ってこれない人もいるの。彼は、ある時、時間が止まった世界に入りこんで、運悪く、戻ってこれないことになるのよ。私は、その覚悟を持った上で、マスターのことを受け入れようと思うの」
何とも潔いというべきであろうか。
ただ、彼女のいう、
――時間が止まった世界――
というのは、何であろうか? 香澄にとっては、そこに妖怪少年が絡んでいるように思えて仕方がない。自分が勝手に作り出したイメージの妖怪少年。元々は、伝えられた話にあった逸話なので、香澄だけの世界というわけではない。ただ、同じような発想をする人がどれだけいるというのだろう。偶然、同じような発想をした女性が目の前にいる。ただ、彼女を見ていて潔さはさっぱりしているように思えるはずなのに、どこかじれったさすら感じられ、苛立ちを覚えるのはなぜであろう? 香澄は自分の中にあるモヤモヤしたものの正体が、分かりかけてきていることを感じていた。
彼女の止まった時間がどれほどのものなのか、本人も気づいていないようだ。実際に泊まった時間の間に何があったのかということの方が重要なのではないかと香澄は思うようになった。
目の前の彼女が誰であるか、何となく分かってきたような気がする。
そして、顔はまったく似ていないのだが、マスターも誰なのか分かった気がした。
――では、ここにいる私は、どんな顔をしているのだろう? まったく自分の知らない顔になっているのかも知れない――