絵の中の妖怪少年
喫茶店自体が、まるで大きなタイムマシンのようだ。しかも、一緒に存在してはいけない人が、時代を隔てて存在している。
――それにしても、どうしてこの人に対して、私は感情が籠ってしまうんだろう?
今まで苛立ちしか感じなかった相手、そう、
――お母さん――
父親の厳格さに逆らうことをしない。つまり流されるだけの人だと思っていたのに、先のことをここまで分かっていて、そして、潔い。
「あなたのおかげよ」
「えっ?」
「あなたに今日、ここで会えたから、私は未来のことを予見できたような気がするの。あなたには感謝しきれないわ」
母親に感謝されるなんて、しかも、ほとんど年齢的に違わない相手である。
「私、何もしていませんけど?」
「いいのよ。あなたがいてくれるだけで、私はマスターに対しての気持ちに正直になれるの。あなたとは、これからもずっと一緒にいられるような気がするのよね。どうしてなのかしらね」
香澄は、何も言い返せなかった。
目の前にいるのは、自分の母親らしい。どうしてここで母親に、それも自分を生む前の母親に会えたのかは定かではない。
香澄は、今ここにいるのは、昔の母親が、タイムスリップでもして、ここにいるのかと思った。あるいは、本当に自分が想像している妖怪少年がいて、妖怪少年の代わりに自分が木の幹になっていたことで、年を取っていないのかも知れない。
妖怪少年と出会った時、そのまま自分の運命のままに生きている人間と、妖怪少年の代わりになって、木の幹となって、誰かが来るのを待ち続けるもう一人の自分に別れる。そして、誰かが現れて、自分が木の幹から開放された時、自分が木の幹であったことも、妖怪少年に出会ったことも、最初に妖怪少年に出会ってからの記憶をすべて失ってしまっている。
そして、意識だけは、もう一人の自分。つまり阿澄の母親の意識が、おぼろげに自分の意識のように残っている。それはまるで自分が先の自分を予見できるような気がしているのかも知れない。
香澄は、そんな世界がここでは繰り広げられているのだと思っていた。
どこを、どのように輪切りにしても、おかしな状態に違いはないのだ。それならば、最初から、
――ここはおかしな世界なんだ――
と感じることにしておいて、自分が考えていることで、一番辻褄が合うことを真実に近いと思うことが合理的な考えになるのではないかと考えた。
理屈をどうしても理解できない場合、冷静になって、客観的な目で見るしかないということは分かっているつもりだ。
だが、その中で、どうしても釈然としないことは残るものだ。すべてを納得させるなど、土台無理なことであった。
そんな中で一つ気になったのは、
――マスターが自分の父親だとすれば、父親の年齢が中途半端ではないだろうか――
ということだった。
マスターはどう見ても、三十歳前半くらいである。少し幅を持たせても、四十歳にまでは行かないだろう。特に父親が死ぬ前までを知っているだけに、明らかに四十五歳で亡くなった父親の年齢ではない。
かと言って、目の前の彼女の年齢は香澄とあまり変わらない。そう考えると、マスターの年齢は確かに中途半端だった。
――そういえば、夕方になってから、マスターを見ていないわ――
「すみません。マスターは本当にいないの?」
「ええ、今の私にはマスターを助けてあげることはできないの」
寂しそうな顔をする。
「大丈夫ですよ。きっと、あなたたちはうまく行きます」
うまくいくとはどういうことだろう?
結婚がゴールだとすればうまく行くと言えるのだろうが、結婚してから自分が生まれてからの二人は、見ていて幸せそうには見えてこない。香澄が自分の言葉に自信を失いかけていると、
「男と女ってね。一緒にいるだけでいいって思うものなのよ。相手が何を考えているのか分からなくても、言葉にしなくても、分かり合えることはあるの。私はマスターに関しては、そのことに大いに自身を持っているのよ」
と、彼女は言った。
「そうなんだ。恋って、まるで『交差点』をいかに作るかなのかも知れないわね」
「なかなか面白いことを言うわね。そうね。まさしくその通り。そして、もう一つ言えることは、その『交差点』を、どれだけお互いに共有できるかということなんでしょうね。その『交差点』は、きっとまわりの誰にも分からないものなのかも知れないわね」
と言っていた。香澄もその言葉に賛成だった。
さらに、彼女がなぜ、妖怪少年とのことを忘れてしまっているのかを考えた時、妖怪少年の存在自体が、この世ではないように思えたからだ。
では、どこの世界?
――それは、絵の中の世界ではないか――
と思った。
絵の中の世界を香澄も意識したことがあるが、母もかなり意識していたのかも知れない。絵の中の世界に引きこまれてしまい、そこで妖怪少年に出会ったことで、誰にも妖怪少年の世界を知られることはなかった。
そもそも妖怪少年など存在するのだろうか?
絵の中に閉じ込められたのは人間、そして、誰かが来るのをじっと待っていて、絵の中に引き込まれるのも人間。つまり、絵の中に今、彼女の代わりに引きこまれた人がいるということだ。
――まさかマスター?
彼女とマスターが同じ世界で存在できるのは、それぞれのもう一人の自分たちである。一度、彼女はもう一人の自分を作ってしまい、そして、その時にマスターのもう一人と結婚した。つまりは、両親のもう一人、つまり、彼女とマスターは、
――この世で同じ時間に存在できない二人なんだ――
と、感じると、マスターが、絵の中にいるという公算は非常に強い。そう思うと、マスターの年齢が中途半端だったことも頷ける。
すべてが、香澄の想像でしかない中で、一つの結論に向かっているのを感じていた。
だが、その結論に近づくにしたがって、香澄の抱いた胸騒ぎは大きくなってくる。
――考えてはいけないこと――
だったのだ。
「私、絵の中に、人の姿を見てしまったわ」
と、思わず口にしてしまった。
それを見た彼女はニヤリと笑みを浮かべたが、
「香澄ちゃん、あなたとこれでやっと本当の家族になれるのよね」
今まで嫌いだと思っていた母親だったが、ここで昔の母親の気持ちに少しでも触れることができてよかったと思っている。しかし、そのすべても、母親の不敵な笑いが打ち消してしまった。
「いやぁあ〜」
香澄の声は、限りなく小さな声で消え入りそうになって響いた。
凍り付いた時間が、再度動き出した店内で、香澄は、すでにそこにはいなかった。
「マスター、おかえりなさい」
「ただいま、香澄」
そのお店は、昨日までとまったく変わらない佇まいを見せていたのだった……。
( 完 )
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