絵の中の妖怪少年
と、感じるほど、あれだけ厳格だった父の見る影はなかった。
「ほら、お父さんの手を握っておあげ」
と、母から言われてハッとした。
震える手を恐る恐る父に差し出すと、父は待ってましたとばかりに、最後の力を振り絞って、握り返してきた。
――どこにこんな力が?
そう思うと恐ろしくなり、その時の香澄は恐怖に歪んだ顔をしていたに違いない。
そんな香澄に父は今までにないほど穏やかで優しい顔をした。ただ、それが最後の顔になってしまった。
香澄は何とも言えない気持ちになった。
――そんな顔になるのなら、最後くらいは、笑ってあげればよかった――
という思いと、
――私の恐怖の顔を見ながら、どうして最後はあんな表情ができたのかしら?
という思いとが交錯していた。
どちらにしても、父の表情は香澄の中で記憶となって残ってしまった。封印してしまいたい記憶であったが、事あるごとに思い出すことになる記憶だった。
「お前は、お母さんに似ている」
と言っていた言葉の理由を確認できなかったことは悔いが残った。しかし、父がそのことを言おうとしていたことも後から思うと感じることができる。
――香澄にとって父親の死というのは、どのような影響を及ぼすというのだろうか?
今でも、分からないでいるのだった。
父親が死んだことは、正直、あまり香澄に影響を及ぼしていなかった。
ただ、父親が死んだことで、母親が変わったのは事実だった。香澄が成長期に父親が死んだことで、しっかりしなければいけない部分は増えたのだが、母親は性格的にも明るくなった。
それでも、母親と話をすることはなかった。元々ほとんど話をすることはなかったので、そのこともあってか、香澄が家にいることは少なくなっていた。
父親が死んでから、しばらくの間、妖怪少年のことを忘れていた。
香澄が思い出したのは、父親が買ってきた絵が、玄関にまだ掛かっていることで、たまに家に帰ってきた時、玄関先で見ていることがあったが、実際に意識して見ているということはなかった。
――でも、どうしてこの絵だけ、ここにあるのだろう?
父が亡くなってから、父のものは、ほとんど、処分したか、物置の中に収納しているようだった。この絵は父が買って来たというだけで、別に父親の持ち物ではないという感覚なのだろうか。香澄にしても、別に絵が掛かっているだけで、ずっと意識することもなかったのだから、今さら意識することもないだろうと思っていた。
ただ、父親が買ってきた絵だけは、瞼の裏に残っていた。その絵を見ていると、引きこまれるような気がするからだった。
香澄が、絵を意識し始めてからだっただろうか、それから少しして、絵が玄関先からなくなっていた。
「お母さん、玄関先の絵、どうしたの?」
と聞くと、炊事をしながらこちらを振り向くこともなく母親は、淡々と答えた。
「あの絵は、お父さんの他の遺品と一緒に、物置に収納したわよ。あなた、あの絵が気になるの?」
最初は、それならそれでもいいと思っていたが、
「しまってあるのなら、私にもらえる?」
すると、今度は母親はこちらを振り向き、
「別に構わないけど、自分の部屋に飾るつもりなの?」
「いいえ、元あった玄関先に飾るつもり」
と答えた。
母親は、何も言わずに頷いただけだったが、
「どうしてあの絵に、そんなにこだわるの?」
と聞かれ、
「意味はないけど、なぜかあの絵の中から、何かに呼ばれるような気がするのよ」
と、適当なことを言い訳にした。
「そう……」
と、母親は、どこか落胆したような表情になったが、その理由を香澄は聞こうとはしなかった。
「もし、またしまいたくなったら、私に何も言わずに、しまっていいわよ」
と、落胆している母親にいうと、
「分かった」
落胆したまま母親は答えたが、最後まで、表情は変わらなかった。落胆してはいたが、無表情だったのだ。そんな母親を今までに見たことはなかったので、少し気にはなっていたが、それ以上のことは何も言わなかった。
香澄が言い訳のように言ったのは、意味はなかったが、実際に何かに呼ばれたような気がしたのも気のせいではなかった。
――妖怪少年だったりして――
と、自分の妄想が何も考えていないようでも、言動に影響したのは事実である。なまじウソでもなさそうだ。
子供の頃を思い出すようになると、妖怪少年の発想がどうしてもよみがえってくる。自分がメモして残しておいた内容が、今、壁に掛かった絵が気になる喫茶店に来ることで、思い出したクラシック喫茶の思い出がフラッシュバックしてくる。父親の死を思い出したことで、父親が買ってきた絵のイメージがさらにクラシック喫茶や今壁に掛かっている絵を見ている自分とが、重なっているかのように感じられた。絵の世界から逃げられないような気がしてきたのは、気のせいであろうか……。
第四章 妖怪少年の正体
目の前に掛かっている絵の中に、自分の姿が見えたと思っていたが、それが本当に自分なのかどうか、少し疑問に思えてきた。
――ひょっとして、妖怪少年なのかも知れない――
妖怪少年が、絵の中から、誰かを誘いこんで、入れ替わろうとしているのではないかという思いが次第に募ってきた。
ということは、妖怪少年を意識してしまってはいけなかったのだ。意識してしまったということは、少なくとも、妖怪少年の中で、
――この人は、自分と入れ替わることができる相手だ――
と、思っているからである。
――絵の中の世界が、死の世界だったらどうしよう――
香澄はまたしても、余計な妄想を抱いてしまった。
以前、怪奇ドラマを見ていた時、本当はこの場にいるはずのない人を見かけてしまったその時、
――そんなことはあり得ない――
と思いながらも、気に掛けていたら、次の日になって、見かけたと思っていた人が、
「あの人、昨日突然亡くなったらしいわ」
と、人から聞かされて茫然となったが、一度だけなら、
――ただの偶然だわ――
と思うだけなのに、同じことが、二度、三度と思ってしまったことで、偶然として片づけることができなくなった。
オチとしては、鏡に写った自分を見て、本当はそこにいるはずのない自分がいるということを他人から言われて、自分が死に足を突っ込んでしまったことを悟ったところで終わっていた。
香澄はその話を思い出し、自分もその話をずっと気にしていたことを思い知った。そして、今回の妖怪少年のイメージが頭の中で重なって、
――今まで繋がっていなかった線が、繋がりそうに思えてきた――
と感じるようになっていた。
まだ漠然としたものなのだが、その感覚が繋がってしまうとどうなるのか、災いをもたらすことになることも十分に考えられる。だが、繋がりそうになっているのを感じてしまった以上、無視して通るわけにも行かなくなったのだ。
――大丈夫なのかしら?
死というものを意識せざるおえなくなり、思い出すのは、父の死だった。
父の死を思い出していると、自分が母親に似ていると言われたことが気になっていた。母親と一体どこが似ているというのか、実に不思議だったが、一度父が、