絵の中の妖怪少年
と言われて、本当は理由を聞きたかったが、聞くに忍びない気持ちになり、結局はその理由を父は話してくれなかった。
だが、香澄はその時父親が何も言わなかったのは、香澄のためだったのではないかと思うと、それ以上言及することはできなかった。
厳格な父親を見てきたこともあってか、他の人を見る時に、親しみやすさを感じていたが、その反対に、
――あまり近づいてはいけない――
と、感じさせるものがあった。
根拠があるわけではないが、父を見たその目で他の人を見ると、
――自分のことしか考えていないんだ――
としか、見えてこなかった。
自分のことしか考えていない人に深入りすることなど、危険極まりないことである。それから他の人とは一定の距離を保つようになった。それは同じ一定の距離を保っている父親とは違う感覚で、父親に対しては近づきにくいという相手のオーラによるもので、他の人に対しては、自分から近づこうとしない境界線を、自分で保つようになったのだ。
妖怪少年に対してはどうだろう?
そのどちらでもないが、どちらでもある距離に位置している。ちょうど二つの間の中間と言ってもいいだろう。
香澄は、自分が本当の父親を見ていないような気がしてきた。それに比べて、母親に対しては、本当の母親を見ているような気がしている。
かといって、本当の父親は、表に出ている父親の影に隠れているような感じではない。お互いに見え隠れしている。厳格な父親のイメージが強すぎることで、本当の父親を見たことがなかっただけで、逆に母親は本当の父親を知っているのだろう。
だから、父親に逆らおうとしないのかも知れない。逆らったとしても、本当の父親に対してではないことで、まるで、
――暖簾に腕押し――
のような頼りない力でしかないことを知っているのだろう。
母親のことを好きになれないのは、厳格な父親に逆らえない情けなさからだと思っていたのに、それが違う観点から見ていたことだったことに気が付いたのだが、その本当の理由に気が付いたのは、だいぶ後になってからのことだった。
――母を嫌いになった理由は、私自身に似ているからだ――
自分の中で嫌いな部分というのは、誰にでもいくつかはあるものだが、数え上げればその中のほとんどが、母親と似ているところだった。
――遺伝なのかしら?
もし、そうであるなら、自分の嫌いな部分は、自分のせいではないと思えてくる。誰かに責任転嫁できるのであれば、したいと思っているところに、遺伝だと分かれば、責任転嫁の相手は、おのずと決まってくる。
――そういえば、私も反発心が強くなればなるほど、自分のせいではないことを他人に押し付けようとするところがある――
と思っていた。
――自分で意識していないところで敵を作ってしまっているに違いない――
人に当たったり、人のせいにすることを、香澄は悪いことではないように思っていた。それで敵ができてしまったのなら、仕方がないとも思う。敵を作らないようにするために、自分で納得できないことを、強引にでも納得させようと意地を張ったとしても、どちらにしても考えは、
――自己満足――
にしか落ち着かないのである。
もう一つ母を嫌いになった理由は、父の香澄に対しての目を知っていながら、無視していることだった。
父は香澄に対して、娘以上の感情を持っているようだった。それは女として見ている目であり、
「お前は昔のお母さんに似ている」
と、まだ子供の香澄に呟いた時、香澄は金縛りに遭ってしまったかのように動けなくなってしまった。
――子供だから、分からないと思ったのかしら?
香澄は、後になってそう思ったが、思うよりも前に身体が反応し、父に対して抵抗作用が働いた。反応した身体は、萎縮して震えている。
――厳格な父親には逆らえない――
と感じたのは、その思いを隠すためのカモフラージュだったのだ。
母を憎んだのは、そんな香澄に気付いていながら、何もできないことを、自分の中で悩みとして感じていることだった。
――何もできないのなら、悩む必要もないのに、まるで当てつけのようだわ――
という思いを抱いたのだった。
その頃から小説を書くようになった香澄は、メモとして残したネタ帳を結びつけていくと、そこに形となってできてきたのが、妖怪少年の話だった。妖怪少年の話は、香澄の想像の中だけのものではなく、文章にして、小説として香澄は形にしていたのだ。
だが、それを公開するという意志はなく、ただ、
――メモを一つの形にした――
というだけだった。
逆に香澄は、メモを形にまでしてしまったことを後悔している。メモにまでしていた分には問題なかったのだが、形にしてしまったことで、余計に鮮明な形として香澄の記憶の中に残してしまった。
――形にさえしなければ、トラウマにまでなることはなかったのに――
と思った。
トラウマになってしまった理由の一つに、高校時代に、父親が死んでしまったことだった。
「お前は、お母さんに似ている」
と言われた言葉が父親に対して、一つ引っかかっていた。本当は、ずっとその言葉の意味を確かめたかった、その理由の一つに、
――父は、そのことを私に分かってほしいと思っていたに違いない――
と感じていたからである。
父は病気で死んだのだが、病院のベッドで、まだ元気だった頃、香澄に何かを伝えようとしていたことは分かっていた。
「香澄、実は」
と言いかけて、香澄も思わず身構えてしまう。
「えっ、何?」
父が何か重要なことを言おうとしているのが分かったが、何が言いたいのか、その時は分からなかった。だが、それ以上、父の口から発せられる言葉はなく、そんなことが何度かあった。
それはまるでデジャブのようだった。
シチュエーションもまったく同じベッドの中から声を掛けられるというもので、その瞬間だけ、香澄は時間が逆行してしまったのではないかと思ったほどだ。さすがに同じシチュエーションを繰り返していると、相手の言いたいことが分かってくるような気になるのだが、最後の詰めが甘いのか、霧に包まれたようで見えてこない。
ただ、思い出すのは、妖怪少年を見た時のことだった。
ベッドの中で横になっていて動けない父は、ずっと前から何かを言おうと心に決めていたにも関わらず、言えなかった。それは誰かが来るまで、その場所から逃れることのできないもどかしさを感じている妖怪少年のようではないか。
香澄は、自分のメモを一つに纏めた話を思い出していると、父親と妖怪少年がかぶって見えてきたのだ。
――近づいてはいけない――
近づいて、手を握りでもしたら、そのまま二人の立場は逆転してしまい、自分はそこから逃れられなくなってしまう。そんな錯覚を覚えていた。
そして、父が何を言いたいのか分からないまま、いよいよ最後の時を迎えた。
「ご家族や親せきの方を集めておいてください」
医者からの最後通告であった。
香澄もその言葉の意味が分かっていた。
それから香澄も学校どころではなくなり、病院につめていることが多くなった。父親もいよいよという時になって、
――人間って、最後はこんなにも弱くなってしまうんだ――