絵の中の妖怪少年
暖かい空気は次に色を感じさせた。もし暖かさを感じなくとも、色を感じたことは間違いない。単純に順番の問題だった。
だが、昨日は暖かさを感じたのは一番最後だったはずだ。ということは、色を感じることさえできれば、暖かさを感じることもできるということである。色を感じるタイミングにも幾種類かあり、
――そのうちの二種類を、昨夜と今朝で感じたんだわ――
ということなのだろう。
香澄は、昨日言われた、
「入れ替わったというのはどういうことだ?」
という言葉が頭を離れなかった。
自分が言ったに違いなのだろうが、その言葉の意味を思い出すことができるのかどうか、正直分からなかった。
だが、このまま忘れてしまうことはできないだろう。意識することは今はないとしても、記憶の奥に封印することで、いずれ何かの弾みに思い出すことになるかも知れない。ただ、その弾みというのは、自分にとって大切な場面である可能性はかなり高いように思えた。――まるで人生のターニングポイントのようだわ――
大げさではあるが、その思いは間違っていないだろう。そうでなければ、記憶の奥に封印したことは、近い将来に思い出すことになるだろうが、思い出したタイミングでは、それが人生のターニングポイントだということに気付かず、そのままスルーしてしまうだろう。
――簡単にスル―するような内容であれば、人生のターニングポイントでなどあるはずもない――
そう思うと、思い出すタイミングが重要であり、それは自分が意識して思い出すことではないように思えた。
自分の意志に関係なく思い出した時が、人生のターニングポイントであり、そのことに対して、その時どれだけ自分が意識して対応できるかということが、重要なのだろう。その時の香澄は、そのことを分かっていたつもりだったが、いつの間にか忘れてしまっていた。
入れ替わりという言葉だけ、ずっと頭に引っかかっていた。まさか、その思いがクラシック喫茶で瞑想している時に感じた妖怪少年の話に結びついてくるなど、思ってもいなかった。
妖怪少年の話を想像している時、
――入れ替わり――
というキーワードを感じながら、
――いつの頃だったか、この言葉に大きな意識が働いている気がしている――
と分かっていたが、この二つが結びつくことはなかった。
思い出すタイミングに少しでもずれがあれば、この二つが結びつくことは、まずないに違いない。それぞれのその先に見えているものに違いがあればあるほど、まったく違った方向を見ているからである。それは、平面と立体くらいの違いがある。それぞれに平面と立体という意識がなければ、すれ違ったまま、交わることはない。
――平面から立体を見た時の『メビウスの輪』が、存在しているからに違いない――
ということではないだろうか。
それにしても、父親が「入れ替わり」という言葉を聞いて、何を思い浮かべたというのだろう?
しかも、香澄は自分が口から発した言葉であるにも関わらず、どうしてそんな言葉を口走ったのか、さらにはそもそも、本当に口走ったのかということすら、自覚していないのだ。父親から罵声を浴びて気が付いた。その時の心境は、本当に自分の意識によるものなのか、覚えていないということは、夢の世界に近いイメージだったということなのだろうか。もし、それが夢の世界に近いものであるとするなら、悪い方向のものではない。なぜなら、夢というものは、楽しい夢ほど、覚えていないものだからである。
厳格な父親は嫌いだったが、さらに嫌いだったのは、そんな父親に抗うこともなく、自分を殺してまで父親についているのは、まるで奴隷のように見えて、情けなく思えて仕方がなかったからだ。
そんな母親が、
「誰かと入れ替わりたい」
と言っていたことを思い出した。
「入れ替わった」
という言葉に反応した父親は、母親が感じている思いを察知しているのかも知れない。ひょっとすると、そのことを分かっている父親は、入れ替わりたいと思っている母親に対して強硬な態度を取ることができない自分に対して苛立ちを感じているのだろう。お互いに牽制し合って生活しているようで、傍目から見ていると、実に焦れったく感じられる。特にお互いに相手のことを分かっていて、どうすることもできずに地団駄を踏んでいるような感覚に、見ている方も耐えられない状況に追い込まれる。それがずっと一緒に暮らしてきた相手だけに、ここから先、どのように対処して過ごしていけばいいのか、分からなくなっていた。
ただ、母親が呟いた言葉と、父親が気にしている言葉とでは、声に出して言ってみれば同じ言葉ではあるが、意味としてはまったく違ったことなのかも知れない。人の数だけ考え方があるとすれば、自分のことだけを考えているとするなら、逆に相手もこちらのことを気にしていると考える人と、まったく考えない人がいても不思議ではない。母親はきっと自分のことしか考えていない。父親は逆に相手の考えていることを気にするタイプであろう。香澄は考え方としては、父親に近いのかも知れない。そう思うと、「入れ替わり」という言葉の意味に、香澄が感じているのと同じ発想が浮かんでいるのかも知れない。そう、今だから感じることができる「妖怪少年」の発想である。
まさか、父親がまったく同じ発想をしているとは思えなかったが、それは、香澄が先に感じたことを、父親が後から感じるのであれば、考えにくいことだが、実際には、父親が「入れ替わり」を意識したのは、香澄が妖怪少年を意識する前だったのだ。
ただ、その頃にはすでに妖怪少年の話を夢に見ていたのかも知れないと思うと、父が意識している妖怪少年のイメージも、父親の夢の中に出てきたものなのかも知れないと感じた。
妖怪少年の発想はあくまでも子供の発想だった。つまりは、子供の頃に聞いた話を大人になって思い出すきっかけが生まれ、そのきっかけも、その時の自分の発想が、子供の発想でなければ、いくらきっかけが生まれたとしても、妖怪少年を発想することはないだろう。
しかも、大人になって急に思い出すのだから、一度思い出してしまうと、今度はなかなか頭から離れることはない。香澄は、そのことが自分の中でトラウマになってきているのを感じていた。
――あの時の父も、入れ替わりという言葉がトラウマだったのかも知れないわ――
それが、香澄が感じているような妖怪少年全体に対してのものだけなのではないような気がしていた。
父は確かに厳格であったため、近づきにくいところがあったが、たまに、自分の方から歩み寄ってくることがあった。そんな時は、優しく声を掛けてくれる父に対し、
――誰かと入れ替わっているんじゃないかしら?
と思ったことがあったほどで、ここで感じた入れ替わりという発想は、すぐに打ち消した。
――入れ替わった相手が妖怪少年だったら、どうしよう――
という思いがあったからだ。
そんな優しい一面を見せていた父だが、
「私が学生時代に絵を描いていたというのを話したことがあっただろう?」
「はい」
「でもな、ある時、急に絵を描くのが怖くなってやめてしまったんだよ」