絵の中の妖怪少年
その表情は、それまで味わっていた孤独から逃れられることへの歓喜の表情ではなかった。むしろ、怯えに近いものだった。
「どうして? あなたはここに本当はいたいんじゃないの?」
香澄は、自分と入れ替わった相手の顔を見ると、思わず諭すような言い方になっていたのに、ビックリしていた。
相手の気持ちを分かっているように思えたにも関わらず、実際には、
――自分が逃れたい一心――
でしかないようにしか相手に伝わっていないであろうことを、情けなく感じていた。
もちろん、そんな自分を納得させられるわけもない。それを何とか自分の中で辻褄を合わせようとする感情が、
――妖怪少年との出会いは、絵の中でだけのことなんだ――
としてしか、感じさせられない。
絵の中は孤独な世界である。
――妖怪少年が一人孤独に、誰かがくるまで永遠待ち続けなければいけない――
そんなシチュエーションは、架空の話としてしか存在しえないことだということは、分かっているはずなのに、それをまるで現実の世界でも可能にできる力は、
――絵の中と行き来することができるのではないか――
という、常軌を逸した発想であるこの感覚と対でなければ、生まれてくるものではないと思えた。
ただ、なぜそれを悟ったのが、
――今日という日だったのか?
ということは、香澄の知るところではなかった。
香澄は、恐怖の中で目を覚ました。
目を覚ましたということは、瞑想していたわけではなく、妄想していたのかも知れない。しかも、その妄想は最初から自分の意識の中にあったもので、子供の頃の記憶だったことに気が付いた。その日は厳格な父親がいつになく饒舌で、今までのようなピンと張りつめた空気が、その日はなかった。
空気が甘い香りを含んでいて、まるで金木犀の香りが漂っているかのようだった。もっとも、それが金木犀の香りだということを知ったのはかなり後のことで、甘い匂いを嗅いでいるうちに、気が付けば、空気に色を感じている自分に気が付いた。
――何となく、黄色い色を感じる――
甘い色というと、イチゴに代表されるようなピンク色を思い浮かべるものだと思っていたのに、黄色が思い浮かぶのは少し意外だった。黄色というと、レモンのような柑橘系の香りで、酸っぱさを思わせるはずなのに、おかしなものだった。
限りなく透明に近い黄色というのは、思ったよりも暖かみを感じさせ、暖かみは十分に高い密度から、重たさも感じさせるものだと思っていたが、却って軽い空気を感じさせた。
「今日は、久しぶりに骨董屋さんに寄ってきて、いい絵を見つけたんだ」
学生時代には絵を描いていたことがあるという話を、父親本人から聞いたことがある。母親は彫刻の方に造詣が深く、お互いに同じ大学の美術部に所属していたことからの付き合いから、そのまま結婚したのだという。結婚の話をしてくれたのは、母親の方だったが、別に純愛ロマンスを聞かされたわけではなく、なるべく部員には知られないように付き合っていたということだが、本当にまわりが知らなかったのかどうか、香澄には分からなかった。
しかし、結婚してからは、二人は美術に関しての共通点を忘れてしまっているようだった。
「同じ美術部で活動している時、要するにお付き合いしている時は、お互いに感性の話をしたりしたものよ」
と、母親が話してくれたことがあった。
その時には、それ以外にも話をしてくれたはずなのに覚えているのは、この言葉だけである。
それだけ、他の話が興味を引くものではなかったのか、それとも、他の話も突き詰めれば、最後には「感性」という話に落ち着くことで、覚えていることは、この話だけになったということなのだろうか。
香澄は、絵だけに限らず、芸術的なことに興味を示すことはなかった。
それは、厳格な父親への反動のようなものだったのだが、同じ芸術でも、音楽鑑賞に関しては、興味を持っていた。
大学時代に立ち寄ったクラシック喫茶との出会いが、香澄の感性を呼び起こしたといってもいいかも知れない。
空気に色や重さ、そして暖かさを感じるなど、他の人にはないことだろう。もしあったとしても、それはあっという間に駆け抜けてしまう時間の中で、すぐに忘れられてしまうものに違いない。
饒舌になっていた父親に対して、嬉しいという気持ちがありながら、あまりにも変わり方が急激で、豹変した姿が、不自然に感じられたほどだった。
――まるで人が変わったかのようだわ――
と感じながら、父親とは、
――つかず離れず――
適当な距離を保って、話を合わせていくことを考えた。
父親は、確かに饒舌だったが、香澄が適度な距離を保っていることに、あまりいい気はしていなかった。一歩間違えば一触即発と言ってもいいほど、二人の間の距離は微妙なところにあったのだ。
ただ、それでもせっかくの雰囲気を崩してはいけないと思っていたのだろう。ぎこちない顔色ではあったが、
――なるべく怒らないようにしよう――
という意識が芽生えているのか、必要以上なことは言わないようにしていた。
しかし、そんな緊張の糸が脆くも崩れたのは、それからすぐのことだった。
「香澄が余計なことを言うから」
と、後になって母親に言われたが、その時、自分が一体父親のどこの癇に障ったのか、まったく分からなかった。
その瞬間はいきなりだった。
それまで、恐る恐るだった雰囲気が、一気に噴火を起こし、何をどう対処していいのか分からない。その場の雰囲気を甘んじて受け入れるしかなかったのだ。
その時にキレた父親がどのような言葉を発したのか、ハッキリと覚えていない。かなり露骨な言葉を吐き出したに違いない。ただ、香澄はその言葉自体にショックを覚えたわけではない。
――やっぱり思っていた通りになってしまった――
と、自分の悪い方の予感が的中してしまったことにショックを受けたのだ。
ただ、一言だけ覚えている父親の言葉が、
「入れ替わったというのはどういうことだ?」
という言葉だった。
前後の内容を覚えていないので、入れ替わったというのがどういうことなのか、よく分かっていない。父親の言葉尻から考えると、最初にその話題に触れたのは香澄であって、どうやら触れてはいけない部分に触れてしまったことにより、父親は堪忍袋の緒を切ってしまったに違いない。
その日、それから父親は気分を害してしまったことで、自分が爆発してしまうことを分かっていたのか、そのまま外出して行った。結局その日は深夜になって帰ってきたようだが、皆が寝静まっているのに気を遣ってか、静かに寝てしまったようだった。
次の日になって、少しぎこちない朝を迎えたが、父は何も言わなかった。いつもの朝がいつものように訪れただけで、前の日が一体何だったのか、香澄にはそれ以上何も考える気にはなれなかった。
ただ、不思議なのは、朝になっても、前の日の空気は残っていた。
最初に感じたのは暖かさだった。
――あれ? この感覚は?
最初に暖かさを感じたことで、すぐにはそれが昨日の空気と同じであるということに気付かなかった。