絵の中の妖怪少年
と、逆の発想をしてしまったが、えてして不思議なことが起こった時に自分を納得させるためには、逆の発想をしてみるのも大切なことなのかも知れない。
それにしても、ここまで絵の中にいる感覚を持っているというのは、本当に絵の中から表を見るという発想をしたことがあったかのようだ。もしあったのだとすれば、それはいつ頃のことだったのか、過去を思い出してみた。
すると不思議なことに、思い出そうとすればするほど、この店に来たのは初めてではないという思いがよみがえってくる。しかも、以前から常連だったのではないかという思いさえ生まれてきた。香澄が今まで常連になっていた喫茶店というと、大学時代に通っていたクラシック喫茶くらいであった。しかもクラシック喫茶では、いつもヘッドホンをしていて、曲を聴くのをメインにしていた。普通の喫茶店の常連とは、少し趣きが違っていたのだ。
クラシック喫茶にいる時は、一人ヘッドホンを耳に当て、流れてくる曲を聴きながら瞑想に入るというパターンだった。瞑想はその時々で違っていたが、途中から一つだったような気がする。それは、一つの妄想を繰り返し抱いているわけではなく、一つの大きなストーリーを何度かに分けて続きを見る形だった。
――次回には、その妄想も終わるかも?
と思いながら、次回を迎えると、終わるどころか、どんどん思いが深いところまで行っていて、妄想は膨らむ一方だった。
――妄想の、大スペクタクルは、どこまで自分を納得させようというのだろうか?
次回から、さらに次回へと妄想は続いていくが、一度の妄想の終わりには、ちゃんと自分を納得させることができていた。もし、そうでなければ、妄想は終わることなく、ずっと続いていただろう。しかも、納得できなければ、夢のようにちょうどいいところで終わってしまい、次回、その続きを見れるという保証は、どこにもなかった。
――いや、むしろ、その続きを見ることはできない――
まるで夢を見ているかのようであり、その方が発想としては自然だった。
寝ている時に見る夢で、ちょうどいい時に目を覚ましてしまった時は、自分を納得させられていない証拠ではないだろうか。
だが、自分を納得させると言って、何をどのように納得させているというのだろうか?
自分の中で、
――納得した――
と感じるのは、妄想の続きを見ることができるからであって、納得していることを自分で理解しているからではなかった。
もっとも、妄想している時にそんなことを考えることができるわけではない。妄想から目が覚めていくにつれ、不安となって自分の中に残っていく。しかし、完全に目が覚めてしまうと、
――自分を納得させている――
という思いだけが残ってしまい、不安は払拭されている。そんな自分は、妄想から覚めてくるにしたがってなぜ不安になるのか、分かっていたような気がする。
――絵の世界から、本当に抜けることができるのかしら?
と、感じたことがあった。
それは、妄想するということは、自分が絵の世界の中に入りこんでいて、そこから抜けることができなくなってしまったことを感じているからではないだろうか。絵の世界を意識するようになって、
――妄想は、自分を納得させるために見るものだ――
という考えが、頭の中に残るようになっていた。妄想自体は残っているわけではなく、自分を納得させたことが頭の中に残っている。だからこそ、
――夢とは明らかに違っている――
と、感じさせるのだった。
――夢は潜在意識が見せるものであって、妄想は絵の中の自分が抱くものである――
その考えは、ある程度的を得ているような気がするが、どうしても漠然とした気持ちから離れることはできない。
クラシック喫茶で瞑想していた時を思い出していた。
あの時は、今から思えば、
――至福の刻――
を過ごしていたような気がする。
確かに、妖怪少年をイメージしたりして、いいことばかりを想像していたわけではなかった。そこが妄想と違うところである。
香澄が思っている、いわゆる「瞑想」は、いいことばかりではなかった。それでも妄想だけを抱いている時とは、感覚的に違っている。
そのことは、クラシック喫茶で瞑想に耽っている時には分かっていなかった。いつ頃から分かるようになったのかというのは、今はハッキリと分かっていないが、それがハッキリと分かってくるようになると、自分を納得させるということの意味が分かってくるようになることだろう。
妄想も瞑想も、自分の都合のいい想像であることには違いない。しかし、どこが違うかというと、外部からの影響を受けやすいのは、妄想よりもむしろ瞑想の方だった。妄想は夢の世界と同じで、あくまでも潜在意識が中心になってくる。そこに自分の意志がどこまで働いているのかは分からないが、ほとんど働いていないように思える。そういう意味で瞑想というのは、ある程度自分の意志が働いているように思える。
たとえばクラシック喫茶のように、耳から入ってくる感覚が、自分の想像力に大きな力を与える。それが瞑想であった。
香澄は、自分がいつもしていたのを妄想だと思っていたが、それが瞑想であることを悟ると、初めてそこで、
――想像力は、自分を納得させることができる唯一のものだ――
ということに気が付いた。
現実の世界では、なかなか自分を納得させることは難しい。なぜなら、自分がいくら臨もうとも、まわりの影響が絶対であるため、必ずしも自分の納得のいく結論が生まれるわけではない。一つのことに納得がいっても、他のことで納得がいかなければ、そこから続いていく現実を自分に納得させることなどできないからである。
香澄は、クラシック喫茶で瞑想に耽りながら、至福の刻を繰り返していたはずなのに、覚えていることの中に、妖怪少年のイメージが残っている。
しかも、そのイメージは自分の中で一番大きなものだった。一番現実味を帯びていないのに、どうしても頭から離れてくれない。その思いがどこから来るものなのか分からなかったが、妄想と瞑想の違いに気付くようになった頃から、分かってきたような気がしていた。
やはり、瞑想と妄想の違いについて分かってきたのが、いつものことであるかということは、香澄にとって重要なことであるのに、変わりはないようだ。
妖怪少年のイメージが頭から離れないのは、忘れられない妖怪少年のイメージを思い出す時に一緒に耳に響いているクラシックの音楽があるからだった。だからこそ、瞑想は自分の都合のいいように想像力を働かせるということを悟ったのだが、もう一つ、目を瞑って聞こえてくるクラシック以外にも、瞼の裏に浮かんでくる光景があった。
それは、妖怪少年の姿が、平面でしか見えてこないということだ。しかも、妖怪少年のその顔を最初は確認できないのに、次第にその顔が自分の顔だということに気が付いてくると、いつの間にか自分と妖怪少年が入れ替わっていることに気付かされる。
「あなたは、私の代わりに、このまま誰かがやってきて入れ替わってくれるまで、永遠に続く孤独を味わうことになるの」
と告げている。