絵の中の妖怪少年
「私は、さっきまで結構いろいろなことを考えていたんだけど、会話と会話の間で、かなりの間があったんじゃないですか?」
と聞いてみると、彼女は少し訝しそうな表情になり、
「そんなことはないですよ。私は少なくとも、そんなに間が合ったような気はしていませんね」
と今度は平気な顔でそう言った。
――どういうことなのだろう?
また、香澄の頭はフル回転していた。
やはり、凍ってしまった時間というのはあるのだろうか?
香澄が自分にとって普通に動いていると思っている時間、まわりは、まるで時間が止まってしまったかのように凍り付いていて、ただ、本当に凍り付いているわけではなく、ゆっくりゆっくりと時間が経過しているだけなのだ。
それに気付いていないほど、香澄は自分の世界の中に入りこんでいて、
――私に時間が合わせてくれているようだわ――
と、まるで、自分が時間を無意識に操れるのではないかと思えるほどであった。
そう思っていると、
――今回が初めてではなく、今までにも同じようなことがあったのかも知れない――
と感じた。そういえば、時間が凍ってしまったという意識も残っているし、時々まわりが一切気にならないほど集中して考えていることがたびたびあった気がする。それを思うと、今日のことは、不思議でも何でもないことなのかも知れない。
要するに、今までもあったことに対して、初めて意識を持ったということにすぎないだけなのだろう。
そんなことを考えているということは、それだけ自分の感覚がマヒしてきていることになるのかも知れない。そのことを意識しないでいると、何でも信じられるように思えてくるから不思議だった。
自分の勝手な解釈が、今なら何でも自分を納得させられると思う。そんな時期が生きているうちには何度かあるのかも知れない。
香澄は、本当に昼間と同じ店に来たのだろうか?
店の雰囲気はまったく同じでも、そこにいる人は違っている。しかも、壁に掛かっている絵も違っている。
しかし、絵が掛かっていることも、掛かっている場所も同じだというのも、ただの偶然として考えていいのだろうか?
いや、店の雰囲気が同じであれば、おのずと絵を飾るなら、その場所もある程度決まってくるのではないだろうか。そう考えると、不思議でもない部分もあるにはあるが、店を表から見て描いているという描写も、デッサンと油絵の違いがあるだけで、同じ発想になっているのも偶然だと言えるのだろうか?
よく考えてみると、どこか香澄の都合のいい発想が生み出した幻想にも思えてくる。夢を見るとすれば、こういう夢になるのではないかと思えるような内容だ。
「私は、お客さんと初めてお目に掛かったような気がしないんですよ」
彼女は、そう言って香澄の顔を覗きこんだ。
「でも、初めて私がこの店に来たと最初に思ったんでしょう?」
「ええ、そうなんです。でも、このお店で会ったような気がしてきたんですけど、それもおかしな話ですよね」
「いつのことだったのかしらね。でも、他人の空似って結構あるのかも知れないわ」
「そうかも知れません。そういえば、お客さんは、あそこに飾ってある絵を一生懸命に見ていましたけど、何か気になったんですか?」
さっき、彼女が自分で描いたと言っていた絵である。
「ええ、あそこにある絵なんだけど、私が昼間に来た時は、あの絵は油絵だったような気がするんです。しかも描写は同じ、この店を表から見たのを描いた絵だったんですけどね」
彼女は、少し考えているようだったが、
「確かに、あそこには以前油絵が飾ってありました。マスターが描いた絵なんですが、数か月前から、私の絵を飾ってくれるようになったんです。一度試しに飾ってみようってマスターが言ってくれて飾ってみると、常連の人が私の絵を気に入ってくださって、それからこの絵をここに飾るようになったんです」
「確かに油絵もよかったんですが、私もこの店なら、油絵よりもデッサンの方がいいような気がしてきました」
「さっき、以前に遭ったことがあったような気がすると言ったのは、まだこの店にマスターが描いた油絵が飾られていた時だったと思います。あの時も、その人は今のように絵の話に触れたような気がするんです」
「じゃあ、その人とお話をされたんですか?」
「ええ、少しの間だったんですけど、したような気がします。話の内容については詳しく覚えているわけではないんですが、絵の話以外にもしたような気がするんですが、正直、思い出すことはできません」
彼女の話を聞いているうちに、香澄はおかしな感覚になっていた。
それは、自分が絵の中に入りこんでいて、絵の中から、表を見ているような感覚であった。
それはさっき、クラシック喫茶のことを思い出しながら妄想していた鏡の中の世界のイメージがよみがえってきたからだ。
しかも、絵の中に入りこんだ自分が見上げているのを、絵の向こうから見ている人は気付いていないようだ。
――絵の向こう側から見ている人、それは私ではないか――
香澄は、絵の中から空を見上げながら、自分が表から絵を見ている感覚になっている。
絵を表から見ている自分はもちろん、絵の中に誰かがいるなど気付いていない。まったく違う時間を、同じシチュエーションの双方向から見ているという、普通、想像することなど不可能なことを、いくつも重ねて感じているような気がしていた。
香澄は、彼女が自分と話をしたというのを聞くと、
――私なら、どんな話をするだろう?
と、思った。
今目の前にしている相手なのに、どこか違った人を相手にしているような気がしたのだ。しかも、さらに不思議なことに、その時の自分も、今の自分ではないような気がしていた。確かに、場面が違ったり、その時の感情によって、違う人のように感じることもあるだろう。それが、ほとんど知らない相手であればなおのこと、同じ人間であっても、まったく違った人のように思えても仕方がないのかも知れない。
それだけに、彼女が香澄と話したという意識を持っているというのは、不思議な感じだ。その時に感じた相手と今の香澄とでは、きっと違った感覚を持っていたに違いない。ここ数か月だけでも、香澄は考え方が変わってきた。半年前に自分が何を考えていたのかを思い出すことも難しいほどだった。
この半年間で一番何が変わったかというと、半年前の香澄は、その少し前に失恋したことで、かなり落ち込んでいた。いつどのようにして立ち直ったのか自分でもハッキリと分からないほど、気が付けば、何も感じなくなっていた。
――そういえば、彼と別れた時に立ち寄った喫茶店、あの店は初めて入った店だったわ――
普段から二人で行っていた喫茶店で別れ話をするのは辛かった。元々別れというのも、相手からの一方的な言い分で、
「別に好きな人ができた」
というものだった。
最初は、承服できなかったが、次第に自分一人がもがいていることを知ると、急に力が抜けてきて、何も考えられない時期がやってきた気がしていた。
――その時も、確かクラシック喫茶のことを思い出したっけ――