絵の中の妖怪少年
「その通りなんだ。君がここに現れるまでは、正直、時間の感覚などまったくなかった。正確に言えば、君が現れるまではというよりも、その少し前から何だけどね」
「どういうこと?」
「どんなに長いトンネルだって、出口というものはあるもので、出口が近づいてくると、微かな光が差し込んでくるだろう? それと同じさ。君がここに来ることは、僕は数日前から分かっていた。いわゆる前兆のようなものを感じたとでもいうのかな?」
少年は笑いながら話していたが、話し方はもはや少年ではなかった。香澄よりも年が上の男性であり、酸いも甘いも知り尽くしているような感じで、
――この人には逆らえない――
と思わせた。
――私と出会ったことで、今まで取ることのなかった年を一気に取って、本来の年齢に到達したんだわ――
と感じた。
しかし、その年齢に達しているにも関わらず、少年の顔は、やはり少年のままで変わっているわけではない。
――どうしてなのかしら?
香澄はそう感じたが、それ以降、思考回路が次第にマヒしてくるのを感じた。そして、一つのことだけしか考えられないようになってきた。
――危険だわ――
その一つのこととは、
――私は、この少年の代わりに、ここで永遠に続く寂しさを味合わなければいけないんだわ――
ということだった。
ただ、そこで引っかかったのは、少年に出会う前に、もう一人の自分と思しき自分に出会ったことだ。
顔は変わっていなかったが、なぜかもう一人の自分は、未来の自分のように思えた。
未来の自分だと分かったから、少年のことが手に取るように分かったのか、それとも少年のことが分かったから、最初に会ったもう一人の自分が、未来の自分であるということに気付いたのか、その順番はハッキリとは分からなかった、しかし、その二つが密接に結びついたことで、その時の瞑想は一つの形を作り上げた。
――普段なら、こんなこと信じられるはずなどない――
と思うことを、自然に受け止めている自分にビックリしている。
そして、さらにビックリしているのは、
――なぜ、今頃になって、クラシック喫茶で感じた瞑想を、思い出したりなどしたのだろう?
という思いであった。
瞑想は夢と同じで、覚めてくると、完全に忘れていくものだ。
――やはり忘れていくわけではなく、記憶の奥に封印されていて、何かあれば思い出すことができるものなのかも知れない――
と、以前から感じていたことを再度感じた。
しかし、いくら瞑想とはいえ、思い出したいことと思い出したくないことが存在するはずである。
少なくとも、この瞑想は思い出したくない瞑想の一つだったに違いない。それなのに、どうして、しかも、このタイミングで思い出してしまったのか、香澄には理解できることではなかった。
思い出したことをいかに自分に納得させるかが、思い出した内容が、その時に想像した内容に間違いがないかということであるが、到底思い出した内容が納得できるものではないことは分かっていた。
しかし、思い出した内容が想像していた内容ではないという確証はどこにもない。それは思い出した内容がリアルであり、最初にもう一人の自分を見ているということが、話の辻褄が合ってしまったことで、あの時に瞑想した内容であることの確証だと思えるのだった。
香澄は、一日のうちに同じ喫茶店に立ち寄ることは稀だった。大学の頃であれば、クラシック喫茶に一日に数回行くこともあったりしたこともあったが、それも馴染みの店だからである。
いくら他に店がないとはいえ、初めて入った店に、数時間後もう一度訪れるということはなかった。
別に自分の中でタブーだと思っていたわけではない。ただ、その機会がなかっただけである。しかし、同じ店に立ち寄る前には感じなかった胸騒ぎのようなものが、店に入ってから感じたのは、気のせいではないような気がする。
その胸騒ぎは、最初に立ち寄った時に、絵を見ていたからである。二度目に立ち寄ったことで、最初に来た数時間前の意識が次第に遠のいてくるのを感じていた。
それはまるで夢から覚めていく時に、夢の内容を忘れていくかのようであり、
――忘れたくない――
という思いもあったが、それほど強いものではなかった。
――運命には逆らえない――
という思いがあり、その運命とは、二度目に入った喫茶店での、彼女との出会いのように思えた。
彼女が香澄にどのような影響を与えることになるのか、最初はまったく想像もつかないことだった。
それでも、店に入ってすぐなのに、ここまで過去に封印した記憶を鮮明に思い出すことができた。やはり、そこには何かが存在していると考える方が、自然なのではないだろうか。
「それにしても不思議ですね。私はずっとこのカウンターのこちら側にいたのに、あなたに気付かなかったわけもないですからね。あなたはどちらに座っておられたんですか?」
香澄がいろいろなことを思い出している間、彼女は何も言わなかったのか、気が付けば、彼女から質問を受けていた。
「私は、あの時も今と同じ、カウンター席の一番奥に座っていたんですよ」
というと、彼女はますます不思議そうな顔をして、
「そこの席には違うお客さんが座っていましたよ。初めてのお客さんでしたけども、男性のお客様で、ただ、ちょっと様子がおかしかったですけどね」
「どんな風におかしかったんですか?」
「帽子を脱ごうとはしなかったですね。目はハッキリ見えなかったんですが、口元が結構広がっていて、気持ち悪い感じでしたね」
「お話、されたんですか?」
「いえ、話はしていません。服もコートのようなものを羽織っていて……、あ、そうだ。かなり背が低かったのを覚えています。まだ子供じゃないかって思うくらいの人でしたね」
香澄は、自分がたった今思い出していたクラシック喫茶で感じていた妄想を、彼女がここで、しかも、自分がいたのと同じ時間に見たというのは、ただの偶然に思えない。彼女が見たという、その子供のような客のいで立ちは、香澄が想像していたのと同じ少年ではないか。
――一体、どういうことなのかしら?
そう思って、今度は店内を見渡してみた。
すると、また不思議な光景を目にした。
「あそこに飾っている絵」
香澄は指を差すと、
「ああ、あの絵ですね。あれは、私が以前にこの店の前から描いたんですよ。私がまだ学生の頃、美術部にいたので、その時にここで絵を描いていて、それを見たマスターから、この店でアルバイトをするように勧めてくれたんですよ」
「え? あれはあなたが描いたんですか?」
「ええ、鉛筆と画用紙を使ってね」
そう、彼女の言う通り、そこに飾られていた絵は、鉛筆画のデッサンだった。
「あの絵は、ずっとあそこに?」
「ええ、マスターは私の絵だけを飾ってくれているんですよ。常連さんの中には私の絵を気に入ってくださる方もいて、おかげで私も楽しくアルバイトができます。私はあまり会話が得意ではないので、絵の話題に触れていただけると、いくらでもお話ができる気がしてくるんです」
そう言いながら、結構彼女は饒舌だった。店でお客を相手にしているうちに、本人も知らず知らずのうちに饒舌になってきたのであろう。