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絵の中の妖怪少年

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 さすがに三十分は長すぎる。歩けばかなり掛かるはずなのだろうが、それでも、こんなまわりに何もない駅で、三十分近くも待たされるのは、耐えられたことではなかった。
 行先は分かっている。一本道だということも聞いていた。
――一時間かかるという話だったけど、ちょっと大げさよね。私の足なら、四十分くらいで行くんじゃないかしら?
 というのも、一つの理由だった。それに、どうせ片道しかタクシーが使えないのなら、帰りに使えばいいと思ったのだ。
 香澄は、タクシーを諦めて、歩き始めた。最初はタクシーに乗れなかったのがショックだったが、一旦歩き始めてしまうと、タクシーに乗れなかったことなどすぐに忘れてしまった。これを頭の切り替えと言っていいのかどうか分からないが、少なくとも忘れられたことはいいことだった。
 季節は二月の後半の頃だった。先週まで雪が降る日があったりと、まだまだ冬の気配が残っていた。朝夕の冷え込みはさすがにまだ真冬並みだったが、昼頃になると気温はかなり上がっていて、歩いていると汗が出てくるほどであった。
 南部支店への道のりは、一本道だと聞いていた。しかも田舎道、
「まわりには、何もないからね」
 と聞かされていたが、冗談抜きに本当に何もないところだった。
 歩き始めて少しだけ店舗らしいものがあったが、途中からそれもなくなり、田舎の風景が広がっていた。
――小学生の頃に、以前こんなところを歩いたような気がしたわ――
 と、感じたが、今から思えば、
――あれは本当に自分で見たんだろうか?
 ひょっとしたら夢に見たことを記憶の中で、本当に見たと思いこんでいただけなのかも知れないと感じた。ただ、もしそうであれば、
――なぜ、そんな思いこみをしたのかしら?
 と感じた。
 想像しただけのことを、どうしてわざわざ自分の記憶として覚えておく必要があるのか、その必然性がまったく思いつかない。だからこそ、記憶していることだということを、今までに一度も疑わなかったのかも知れない。
 この道は、確かに一本道になっていて、まわりに何もないという表現が一番であった。見た目そのまま表現すると、そのままの発想することになるが、実際と違っていても、それくらいどうでもいいような気がしてくるような風景だった。
 山と呼ばれるようなものはどこにもない。しいていえば、小高い丘のようなところが見える程度だが、よく見ると、遠くに山が見えているような気がする。山に見えるその部分は、雲と一緒になっていて、雲なのか山なのか判断できない。
――小学生の頃に見たという記憶は、山と雲のハッキリとしない境目を見た時に思い出したのかも知れない――
 と、感じた。
 ただ、山を感じない平原は、田舎の代名詞でもあるかのように感じられた香澄は、歩き始めた時から、
――本当に目的地に辿り着けるのかしら?
 と感じていた。
 途中に、森のようなものが見えた。少しだけ歩いてみると、そこは森ではなく、交差した道になっていて、道の両脇に林立している木を、森のように錯覚しただけだということに気が付いた。
 交差している道に気が付いてみると、次第にそこに気が集中してくるのを感じた。
――なぜかそこにいて、こちらを見ているのを感じることができる――
 と思うと、自分の実際に見えている目とは別に、自分の意識の中にも目があって、それが別の景色を映し出していることを知った。
――なんか不思議な感覚だわ――
 歩き始めは、
「今時こんな田舎が存在するなんて」
 と感じ、ウンザリしていたのだが、自分の意識の中に目があることを感じてくると、今度は自分が何を感じてくるのかということに、少しずつ興味を抱くようになっていた。
 田舎の風景を感じていると、またしても小学生の頃を思い出した。
 小学生の頃であっても、ここまでの田舎に来たことなどなかったはずだ。ただ、こんな田舎が存在していることだけは意識していた。なぜだったのだろう?
 そのことに気が付いたのは、しばらくしてからだったが、おそらく学校の中に飾ってあった絵を見たからだったように思う。
 香澄が通っていた小学校は、結構芸術的な絵が置かれていた。小学生だった香澄に絵のことが分かるはずもなかったので、飾っている絵のことを意識したこともなければ、当然、どんな絵が飾っていたかなど覚えているわけもない。
 ただ、芸術的なものは絵だけではなかった。音楽も芸術的で、授業中以外は、ほとんどクラシックが掛かっていた。
 聴く意思がなくとも、掛かっていると、意識しないわけにはいかない。クラシックの調べは壁に掛かっていた絵のイメージとも合致していて、クラシックを聴いていると、小学校の壁に掛かっていた絵を自然に思い出して聴くようになっていた。
 田舎の道を歩き始めた時、最初はまったく音もなく目の前に広がっている光景にウンザリしていたが、次第に小学校の壁に掛かっていた絵を思い出してくると、耳の奥からまるで耳鳴りのようにクラシックが流れてくるのを感じた。
 それまでは、ちょっとした風だったにも関わらず、耳元で、
「ビュービュー」
 と音が鳴っていたのを感じていた。
 その音が余計にだだっ広く横たわっている光景を、ウンザリさせるものに変えていた。
 風の音は、横殴りの音ではない。吸い込まれるような音だった。
 どこかに見えない穴のようなものがあって、そこに何かが吸い込まれていく。目の前に広がっている光景に吸い込まれるものなど何もないのに、吸い込まれていく感覚だ。
――吸い込むものがないのに、さらに吸い込もうとする力?
 そこには、自分さえも吸い込もうとしているのではないかと思う強力な力を感じ、風というものが、
――本当は恐ろしいものではないか――
 と感じさせるものになっていた。
 風が次第にクラシックの音に変わってきていたが、不思議なことに、クラシックの音が、それほど大きなものではないような気がしてきたのだ。
 風の音に比べて、クラシックの音楽の音がそれほど大きく感じられないのは、錯覚でしかないのだろうが、そのことが自分の中の思考能力とどのような関係があるのか、まだよく分かっていなかった。
 少なくとも、一度も来たことのない場所で、ここまでいろいろなことを短い時間内で考えられる自分にビックリしていた。
 子供の頃から歩いていると、いろいろなことが頭の中で巡ることがあったのも事実だった。その時は、結構クラシックの音楽が耳鳴りのように響いていたような気がする。
 子供の頃から考えていたことは、成長するにつれていろいろと変わっていったが、少々の長い道のりでも歩いていて苦痛に感じることがなかったのは、考え事をしていたからだと言えなくもなかった。
 考え事をするのは嫌いではなかった。時間を感じることがないというのが一番の理由だが、時間を感じることがないから嫌いではないのではなく、その間に疲れを感じないことが一番の理由だったような気がする。
作品名:絵の中の妖怪少年 作家名:森本晃次