絵の中の妖怪少年
――ひょっとして、鏡の中に自分以外の誰かがいるんじゃないのかな?
と感じるようになった。
――鏡の中にいるのは、自分一人だという考えだけを持っていると、理解できることもできなくなってしまう――
と、感じた。
最初は、考え方に幅を持たせることで、不可解なことを少しでも自分に納得させようとする柔軟な考えが必要だと感じたことから始まった考えだった。
しかし、鏡の中に自分がいるという考えも、そう簡単に納得させられるものではない。
――夢の中だから――
と考えれば、いくらでも納得させられるかも知れないという考えも、少し危険な気がしていた。
いくら夢の中だとは言っても、納得できることとできないことがある。それでも、無理やりに納得させようとすると、それは、
――怖い夢を見た――
として、意識の中に残ってしまい、本当は忘れてしまいたいことだという意識があるにも関わらず、どうしても忘れられないこととして残ってしまうのだろう。そのことをトラウマとして感じることで、今度は、
――忘れたくない覚えておきたい――
と感じる楽しい夢を、覚えておくことが不可能になってしまうのだ。実に皮肉なことである。
香澄は、この時の鏡を見たと思っている夢を、反対に考えてみた。
――鏡の世界を見ていたと思っていたんだけど、本当は、鏡の世界にいたのは自分の方で、本当の世界を見ていたのではないか?
普通なら考えられないことだが、
――夢を見た――
という発想であれば、許されるのではないかと感じたのだ。
同じ、夢を見たという発想であるなら、無理な発想を思い浮かべた時であればあるほど、夢というものを正当化して見ることができるような気がした。
――夢というものを、安易な発想で使ってはいけない――
そう思うことで、自分をどれだけ納得させられることが増えるのかと思うと、発想の転換が不可欠であることを認識できるだろう。
鏡の中から、現実の世界を見たのであれば、視線が他の人であったり、複数であったりしても不思議はない。元々、現実の世界を中心に考えていたのだから、鏡の世界から見た現実の世界がどのようなものなのか、発想したことがないと思えて仕方がない。しかし、実際には意識していないだけで、思い浮かべることはできるはずだ。意識していないというのは、覚えていないということと同じではないのだろうか?
元々見た夢は、左右対称だという意識を持った夢だった。
左右対称というだけで、鏡の世界を思い浮かべたのは無理のないことだが、考えてみれば、左右対称という考えを鏡の中の世界だけだと思うのは、思い込みに過ぎないのではないだろうか。だから、鏡の世界に思いを馳せ、鏡の世界と現実の世界という二つだけの世界を思い浮かべ、理屈に合わないことを、自分に納得させるためという名目で、
――自分が鏡の中にいて、鏡の中から現実世界を見る――
という発想に行きついた。
もし、それが、
――誘導された発想であったとすれば?
一体誰に誘導されたというのか、そして、その理由は?
と、考えれば、いろいろな発想が思い浮かんでは消えていく。
本当に消えていくのかどうかも定かではなく、消えて行くように見えて、意識の中に格納されているのかも知れない。
ひょっとすると、二度と出てくることのない発想なのかも知れないが、一度は自分の中で考えたことである。ふとしたことで思い浮かぶ発想であり、
――以前にも、同じことを考えたような気がする――
というデジャブを引き起こすのかも知れない。
自分の考え方が一つの道の上にしか存在しないという発想を持っているとすれば、それは常識という範囲から抜け出すことのできない自分を分かっているからなのだろうか。分かっていなければ、一つの道の延長線上の自分すら見失ってしまうだろうと思えてきた。まずは、目の前に見えている自分の発想が、自分をどれほど納得させているかということを、理解できている必要がある。そうでなければ、
――鏡の中から、現実の世界を見る――
などという発想が生まれるわけもない。
もし生まれるとすれば、何かの力が働いているとしか考えられない。そもそも、何かの力など、自分を納得させられるものではないはずなので、存在を意識することができたとしても、その正体を確認することは、永遠にできないに違いない。
複数ある視線を感じていると、鏡の中の世界にいるという意識が強まってきた。その時は夢だと思っていたので、目が覚めた時、次第に意識が戻ってくるにつれて、忘れていったのであろう。鏡の中から表を見るという発想が、その時から芽生えていたのに、本人の意識がない。
――無意識に何かを感じていたような気がする――
と、それまで他のことを考えていたりしてボーっとしていたわけでもないのに、我に返った気がする感覚に陥ることがあった。それは、自分に納得いくいかないの問題ではなく、ただ、意識できるかどうかということに気持ちが行っていたのだ。
一つのことを思い浮かべただけで、こんなにもいろいろなことが、発想として浮かんでくる。
――まるで「わらしべ長者」のようではないか?
一つの発想が、いくつもの発想を生むというのは、それだけ可能性が広がってくるということで、この日の香澄は、それまでにないような頭の回転をしていたのかも知れない。
回転が早い遅いの問題ではなく、どれほど広げて考えることができるかということであり、ただ気になったのは、発想がネガティブな方に偏っているように見えるところがあることだった。
その日の香澄は、朝から目覚めがよかったように思えた。
――目覚めのいい時というのは、得てして悪いことを考えてしまうことが多かったような気がしたわ――
それは怖い夢を見たからなのかも知れない。
怖い夢というのは、覚えていたくなくても、忘れることのできないものであり、忘れられない夢を見ただけに、目覚めはしっかりしている。夢を見たという意識も残っていて、目が覚めるにしたがって、怖い夢を見たという意識がよみがえってくる。
ただ、その日は、怖い夢を見たという意識は残っていたが、どんな夢だったのか、思い出せないでいた。
――目が覚めるにしたがって、意識の中で何かと融合したのかも知れない――
と、感じると、
――見た夢は一種類ではなかったのではないか?
と思うようになった。複数の夢は複数の視線を思い出させたのかも知れないとも思い、どちらかの夢がどちらかを覆い隠すような役目を果たしているのではないかと思わせるに至った。
香澄は今までに、
――一晩に、複数の夢を見たことが何度かある――
と感じたことがあった。
一晩に何度も目が覚めていれば、複数の夢を見ることの方が自然なはずである。一度目が覚めてしまうと、それまで見ていた夢はリセットされる。たいていの夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだが、楽しい夢であれば、
――続きが見たい――
と思うものだ。
それは、楽しい夢であればあるほど、ちょうどいいところで目が覚めてしまうからであって、目が覚めてしまうことを何とか思いとどまらせようとしたこともあったくらいである。