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絵の中の妖怪少年

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――指先から匂ってくるものだったんだ――
 と感じた。
 指先から匂ってくるアンモニアの臭いを嗅いだその時、一気に気が遠くなった。その時に、
――私はこのまま気を失ってしまうんだ――
 と感じた。
 どうしてそのことを意識したことを覚えているのかというと、気を失うまでの過程が、自分の中で意識できたからだ。
 アンモニアの臭いを嗅いだ瞬間、まず、鼻に痛みを感じた。鼻の通りが一気によくなり、今度は、吸い込んだ臭いを反対に吐き出そうとする意志が働いた気がした。
 ただ、その意志は勘違いだったのかも知れない。鼻の通りがよくなった時、その時以外でも、鼻の奥から表に出てくるものを感じたことがあったからだ。その時の記憶を意識したことで、意志だという錯覚を引き起こしたとしても、別に不思議なことではないような気がした。
 気を失うまでに感じたのは、身体の奥に熱を感じたことだった。熱が籠っているのを感じることがどうしてできたのか、それは、身体に纏わりつく湿気を感じたからだということを、最近になって意識するようになった。
――身体のまわりに湿気を感じた時、その時、自分の身体に異変が起きる時ではないだろうか?
 と、香澄は感じるようになった。
 雨が近づいたりすると湿気を感じることもあるが、身体に纏わりつくような湿気を感じるわけではない。身体に纏わりつく湿気というのは、
――空気の重さ――
 を感じる時であった。
 天気が悪く、雨が近づいたとしても、空気の重さを感じることはない。人によっては、
「雨が降ってくる時に、腰や身体の節々に痛みを感じたり、古傷が痛んだりすることがある」
 という話を聞いたことがあった。
――そんなのウソだわ――
 と、信じようとしなかったが、
――年齢にも関係があるのかしら?
 と思うようにもなっていた。
 身体の節々や、古傷というと、ある程度年齢の行った人のセリフに思えたからである。自分のように、まだ高校生だった頃、感じるようなものではないと思っていたのだ。
 しかし香澄は、空気の重さを、
――湿気を含んでいるからだ――
 ということを感じてはいたが、天気とは直接関係がないと思っていた。空気の重さや湿気を含んでいるように感じる空気は、あくまでも香澄が感じている感覚であり、漠然としたものだというだけのことであった。
 高校時代の記憶があまり残っていないのは、この時の思いがあったからなのかも知れない。
 確かに、記憶するようなことがほとんどなかったのも確かだが、体調を崩したりしていることが多かったので、何かを継続して行うということが困難だった。だが、それは、自分の中で何かを納得させるための言い訳だったのかも知れない。自分で意識していないトラウマのようなものが存在し、トラウマが、記憶の奥で、決して呼び起こしてはならない何かを隠そうとしていたのではないだろうか。
 高校時代のことを思い出すなど、今までになかっただけに、少し戸惑っていた。
 同じ喫茶店なのに、最初に来た時と数時間が経ってきた時とで、これほど感覚が違っていると思ったことで、高校時代を思い出してしまった。そのキーワードがこの時は、
――重たい空気――
 であり、その重たさを感じさせるのが、
――湿気を含んだ空気――
 だったのだ。
 ただ、今回は、その前に乾燥した空気というものを、間違いなく感じていた。高校時代のあの頃、乾燥した空気を本当に感じることができたのかと言われれば、今思い出そうとしても、その意識は思い出すことができない。
――高校時代との違いは、乾燥した空気を感じることができたということになるのかしら?
 本当にそれだけのことなのかどうか、香澄は考えていた。
 そしてもう一つ今回感じたこと、
――どこか平面のような感覚がある――
 というものである。
――平面は、立体感を出すために、平行線を平行線でないように描く――
 というのが、香澄が絵を見て感じたことだった。
 香澄に絵心があるわけではないが、
――もし自分が絵を描こうという意識があったとすれば、最初に感じることが、平行線のイメージだわ――
 と、考えていた。
 さらに、ここまで来る時に感じた、
――股の間から見た空の感覚――
 を思い出していた。
 あの時も、立体感というよりも平面をイメージしたような気がした。要するに、
――どこに重点を置くかによって、見え方がまったく違ってくるということは、そこに平面なのか、立体なのかのどちらを感じるか――
 ということを感じさせるということであろうか。
「絵を描く時は、目の前に見えていることを忠実に描くだけではなく、時として大胆な着色も必要だ」
 という考えを思い出した。
 平面を立体のように描こうとすると、見えているものをいかに立体感を出すようにするかと考えれば、自分の目を真正面からだけではなく、いろいろな方向から見せる工夫も必要だということである。
――今、ここにいる私は、絵の世界の中に入りこんでいるのではないかしら?
 そう思うと、違和感の原因が何であるか、少し分かったような気がする。
――そうだ、左右対称なんだ――
 昼間来た店で感じたイメージと、夕方来た店では、左右対称に感じられた。
――鏡の中の世界?
 そこまで考えてくると、自分の発想が留まるところを知らないことに気が付いた。これは高校時代に体調を崩した時に、時々感じた思いだった。
――夢を見ていたんじゃないかしら?
 本当に夢だったのかどうかは別にして、明らかに意識は別の世界に行っていたことを示していたようだ。
 以前、見た夢を思い出した。
 それは鏡の中に、閉じ込められた夢だった。
 最初は、鏡に自分が映っているのだと思った。左右対称のいつもの動きで、何ら違和感がない。
 しかし、違和感を感じたのは、鏡から顔を背けた時だった。
――違和感を感じるのを分かっていたような気がした――
 と、その時に感じた。鏡から目を逸らした瞬間から、誰かに見つめられている気配を感じたからだ。しかも、その気配が鏡の中からのものだということに気付いていたのに、気付いていたことを後になって悟った。
――本当は分かっていたのに、それを認めたくないという気持ちが働いたに違いないわ――
 と感じた。
 鏡の中から感じる視線というのは、当然自分しかいないはずである。香澄も、自分の視線を感じたと思い、気持ち悪さはあったが、それだけ自分の目力が強いことで、鏡に写った自分の顔を想像してみたが、簡単に想像できるものではなかった。
 そのことを思い出して、時々鏡を見る時、自分の顔を睨んでみたりしたものだったのだが、
――おかしいわ、目を逸らした時に感じてしまうほど、自分の目力が強いとは思えないわ――
 しかも、目を逸らした時に感じるということは、少なくとも時間差がある。時間差があるということは、目を逸らす前に見ていた視線の強さを、目を逸らした瞬間に感じるということであり、いくらそんなに時間が経っていないといえども、残像が残るほどの強い眼力を持った人間に今まで出会ったこともない。自分の眼力の強さをどうこう言う前に、眼力の強さだけで、残像を感じるものなのか、実に疑問であった。
作品名:絵の中の妖怪少年 作家名:森本晃次