絵の中の妖怪少年
それが、「距離感」だった。「距離感」とは、言い換えれば遠近感とも言える。自分の記憶の中にある距離感よりも、遠かったり、ものによっては近かったりしている。
記憶の感覚というのは、時間が経てば少しずつ鈍ってくるもので、最初に感じた意識がどこまで正しかったのか。数時間も経てば怪しいものだ。しかも、同じものを見て、
――違っている――
と感じるのだから、今目の前にあるものこそ真実なのだ。
――真実?
そういえば、真実のものであっても、絵に描こうとした時、思い切って省略して描いたりするものだというのをまたしても思い出した。
――今、自分が目の前にしているものが、本当に真実だなんて言えるのかしら?
それは、まるで絵に描いた風景を見ているかのようで、
――絵に描いた風景なら、そこに空気なんて存在しないわ――
と感じたことから、目の前の光景に、空気の流れを感じないという思いに駆られたのだろう。
――不可解なことであっても、少しずつでも、考えを順序立てて見ていけば、それなりの矛盾のない考えを引き出せるものなのかも知れない――
と、香澄は考えていた。
――まるでさっきまでいたような気がするわ――
店内に入り、入り口で立ち止まって、まわりを見渡すと、そこに見えるものは、最初に立ち寄った昼下がりに見た光景を再現しているかのようだった。店内にいる客もまばらで、さっきとほとんど変わっていない。まるでデジャブのようではないか。ほとんど誰も動こうとはしない。誰もが本を読んだり、携帯を弄っているのか、微動だにする様子もない。
しかし、集中しているようにはどうしても思えない。いくら動かなくとも、何かに集中していれば、何かしらのオーラのようなものが滲み出てくるものだ。それなのに、オーラはおろか、人の気配まで感じない。まるで部屋全体が凍りついてしまったかのように感じられた。
それでもその感覚は、香澄が、
――自分の指定席――
と決めている、カウンターの奥の席に座るまでのことだった。
それまで、歩きながらでも、凍り付いてしまったと思った空間には、空気が流れていなかった。しかし、席に座った瞬間、急に空気が流れ始めたのか、喧騒とした雰囲気がよみがえってきた。人の声は聞こえないまでも、何かがこすれるような音や、息遣いに似ている、
――空気の流れ――
を感じることができた。BGMも流れていて、
――どうして、これが分からなかったんだ?
と感じると、一瞬、耳鳴りがした時に感じる痛みを耳の奥に感じた。
――まるで耳栓をしていたのを外した時のようだわ――
と感じた。
海岸で、巻貝を耳に当てた時に聞こえる音を、
――潮騒の音色――
と、子供の頃に聞いたことがあり、実際、海岸で巻貝を探して、自分の耳に押し当ててみたことがあったが、
――本当だ――
と感じたのを思い出した。
あの時にも同じような耳鳴りを感じたが、同じ思いをまさか、海岸以外で、しかも大人になって感じることになるなど、思いもしなかった。
――そういえば、ここに来る途中に、空気の流れがないのを感じたような気がするわね――
と感じたのを思い出したが、それがひょっとすると、
――海岸で感じた巻貝を耳に押し付けた時に感じた思いであったのではないか――
と、今になって感じた。
感じたのは、ついさっきだったはずなのに、かなり前に感じたことのように思えてきた。同じ思いをしたことが今までにもあって、思い出していたのは、さっきのことではなく、ずっと前のことを思い出していたのかも知れない。
ついさっきのことを飛び越して思い出したのだから、思い出した時は、さっき感じたことを忘れてしまったのか、同じ思いを二度したと思わなかったようだ。
もちろん、今それを感じたわけではなく、後になって同じような感覚を覚えた時、以前に感じたことで時間的に矛盾があったということが気になっていたことで、思い出すことになったのだろう。
席に着いてからというもの、それまでの凍っていた空気が一気に解けてしまっていた。凍っていた空気は、完全に乾燥していて、
――湿気などありえない――
と、感じるほどだった。
しかし、凍り付いた空気を抜けると、そこには暖かさが戻ってきたせいもあってか、さっきまでの乾燥とは打って変わって、湿気を帯びた空気を感じる。
凍り付いた空気と、湿気を帯びた空気、
――どちらが重たいのだろうか?
と、香澄は考えていた。
凍り付いた空気は、自分にはなぜか影響しておらず、
――まわりの空気――
が、凍り付いていただけだった。
しかし、凍り付いた空気が一気に瓦解し、湿気を帯びた空気に一変してまうと、今度は急に自分にも影響してくるのを感じた。
――まるで水の中を歩いているようだわ――
空気の中にある湿気は、水圧を伴うもので、空気の中に感じたものを湿気だと思ったのも、
――水圧を感じたからだ――
と言えるのではないだろうか。
店の中で湿気を感じると、もう寒さは感じなかった。そのはずなのに、なぜか指先に震えを感じた。
――寒さからくる震えではないのかしら?
震えは、しばらくすると痺れに変わり、指先の感覚をマヒさせていた。
そういえば、指先に痺れを頻繁に感じるようになったことがあったが、あれは高校の頃のことだったように記憶している。
あの頃は、時々体調を崩して学校を休んだりしていた。元々身体は丈夫な方だと思っていただけに、高校時代の自分はどうかしていたのかも知れない。
時々でも体調を崩していたのに、それほど心配はしていなかった。一時的なものだという思いが強かったからである。別に根拠があったわけではない。体調を崩した時にパターンがあったからだ。しかもそのパターンはよくもなることはなかったが、それ以上悪化するということもなかった。
――治るとすれば、忘れた頃に体調を崩さなくなったと思えた時なのかも知れない――
体調を崩す時、前兆のようなものがあった。
まずは、喉が痛くなる。扁桃腺が肥大というわけでもなく、乾燥した空気に反応することはあったが、いきなり喉が痛くなるということは、それまでにはなかった。
一度、喉が痛み出すと、熱が出てきそうな予感に襲われる。本当に熱が出るかどうかはその時でまちまちだったが、半分くらいは発熱せずに済んでいたように思う。発熱しない時は、身体が急に熱くなり、気が付けば、汗をぐっしょりと掻いている。熱が出る時は、熱くなった身体から褪せは出てこない。そのまま意識が薄れてきて、発熱していることを悟ると、そこから先は、安静にすることだけを考えた。
問題は、発熱しない時である。
身体から出てくる汗が、熱を発散させているという理屈は分かっていた。汗を掻くことで、身体も楽になってくるのだが、身体に纏わりついた汗は、着替えるまではなかなかスッキリとはできない。
そんな時、空気の匂いを感じる。匂ってくるのは、鼻を刺激するような臭いで、アンモニアのような臭いであった。アンモニアの臭いを感じると、指先に痺れを感じさせる。そなある時、指先を鼻に近づけて臭いを嗅いだことがあった。思わずの行動だったのだが、臭いは明らかにアンモニアの匂いだった。