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絵の中の妖怪少年

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 営業所の帰り道、目指す喫茶店が見えてきてからというもの、歩きが急に遅くなった。目指しているものが見えてくると、えてして歩が進まないことは今までになかったことではない。前に踏み出す一歩に力が入り、足が急に重たくなってしまったのか、上げた足がすぐに地に着いてしまう。
 そんな時は、足元を見ることができない。
 一度、頭を下げて足元を見てしまっては、なかなか頭を上げて、進行方向を見つめながら歩くことができなくなる。香澄は、なるべく頭を下げないようにして前を見て歩くようにした。
 目の前に広がっている光景が、次第に小さくなっていくような気がするのが気がかりだった。
――近づいているはずなのに――
 普通に歩いていれば、見えてくるはずの光景を最初からイメージしているのかも知れない。イメージしている光景ほど、実際の景色は小さく見えている。それだけ思ったよりも前に進んでいない証拠であり、認めたくないという思いが、イメージだけを、正直に映し出していたのであろう。
――こんな思いを、今までに何度したことだろう?
 近づきたくないという思いから、目の前に来ているはずのものが、視界から消えてしまったという妄想を抱いたことで、いつの間にか夢の中にいたようで、現実に帰った時、夢から覚めた時の感覚をわざと意識するようにしていた。そのため、現実逃避を認めたくないと思っている意識が、妄想を夢として片づけたいという意識を駆り立てていたのかも知れない。
 以前に一度感じた妄想は、
――自分が外から見られている――
 という感覚を覚えた時だった。
 なるべく前を見て歩かなければいけないと思って、視線を正面に据えていたが、どうしても気になるのが空だった。
 その時の空は、今までに感じたこともないほど、灰色が深く、色に対して初めて、
――深い――
 と感じた時だった。
 雲が空を支配するかのように、幾重にも厚く張り巡らされていて、色は灰色の一色なのに、厚みを感じることができるほど、同じ灰色にも、種類があったのだ。
「迷いこんでしまったら抜けることができないイメージを色で表すとしたら?」
 もし、そう聞かれたとすれば、
「灰色ではないでしょうか?」
 と答えるような気がする。
 グレーと呼ばれる色は、ハッキリとしない時の代名詞のように呼ばれていて、ハッキリしないというのは、奥に引きこまれるだけの要素を満たしているということだ。
 グレーの雲は、まわりから次第に濃くなっていき、中心部分は、ほぼ暗黒の世界である。同系統の色が、木の年輪のようになっていたとすれば、見えてくるものは、立体感である。そして中央に行けば行くほど濃くなってくるということは、中央が奥深くなっているということであり、まるでブラックホールを思わせる。
――それが、平面と立体の違いであり、平面に見えていたものが、立体的に感じられるようになる時の錯覚を呼び起こすものなのかも知れない――
 と、感じるようになっていた。
 下を見て歩いてしまうと、頭を上げられなくなってしまう。かといって、上を向いて歩いていると、ブラックホールのような雲に吸い込まれそうになり、足が竦んで動けなくなりそうで怖い。やはり、正面を見て歩くしかないのだ。
 ただ、正面を見ていると、空を見ないようにするのは困難だった。香澄は子供の頃、友達と遊んでいて、
「足を開いて、股の間から見てみると、世界が変わって見えるわよ」
 と、言われて、実際にやってみたことがあった。
 さすがに、子供の頃だったので、日本三景の一つである「天橋立」を知るわけもなく、ただの好奇心で股の間から覗いてみると、
「本当だ、空がこんなに広いなんて」
 と、感動したのを思い出した。
 普通に見ていれば、空は地平線の向こうに見えるだけで、山や建物よりも上にしか見えので、視界のほとんどが地平線の延長であり、空はおまけにしか見えなかった。
 それが、股の間から見ると、まったく違って感じられる。
 自分が見ている真正面は、空しかない。すべてが空に支配されているように見えていたが、地平線は、頭のさらに上の方にしか見えなかった。視界のほとんどを支配している空は、普段見ている空とはまったく違っていて、おまけであっても空を見ると、いかにも地平線の向こうに広がっていて、遠くにしか感じなかった普通に見ていた空だが、股の間から覗いてみた空は、地平線と同じ位置に存在しているようにしか感じられない。つまりは、――股の間から見た景色は、立体的には見ることができない――
 ということである。
 さらに、ちょうどその時に見た空は、雲一つない真っ青な時だった。股の間から見たのは、それから何度かあるが、見る時というのは、そのすべてが雲一つない真っ青な空の時だったというのは、偶然であろうか?
――確かに、真っ青な空の時以外、股の間から見たいとは思わない――
 と、感じていた。
 それはやはり股の間から見る景色が、平面的にしか見えないからだろう。雲があり、その雲が灰色だったりすると、普段の角度から見ていても、雲の奥深さが感じられるのだから、平面にしか見えない股の間から見た鈍色の空が、どのように写るのか、想像もつかない。
 その日の空は鈍色だったので、本当なら股の間から見た風景など、想像するはずのない日だった。ただ、空が鈍色ではあったが、雲の合間から、光が漏れていた。ちょうど傾きかけた夕日の近くには、雲はなかった。まるで、太陽を避けるかのように、その部分だけ雲がなかった。この時とばかりに日差しが差してきて、雲のまわりは、まるで後光が差したかのようになっていた。
 空が鈍色に輝いていると、いつもは鈍色の雲に対して深いブラックホールを感じていたのに、同じ深さは感じるが、太陽がもたらす光は、掘られた深さというよりも、
――光が鈍色の空を避けているようだ――
 と感じさせるような深さがあった。
 鈍色の雲に「避けられた」光が、自分の目指す喫茶店を照らしている。ここまで考えてくると、確かに来た時とは、条件的にもまったく違った光景を醸し出しているように見えていた。
 店の中に入ると、今度はまた昼間に入った時と雰囲気が違っていた。
 昼間入った時に感じたのは、店の中の広さに関してだったが、広さに関して、もう一度改まって見てみたが、今度は、表から見たイメージとさほど変わらなかった。
――でも、何かが違うんだわ――
 と感じていたが、それは何なのだろうか?
 店の中で、空気が流れていないのを感じたからだということに気が付くまでに少し時間が掛かった。段階を追って考えないと分からなかったからだ。
 最初に感じたのは、店の中に入った時の不自然さだった。
 何が不自然なのかというと、配置が不自然だった。最初に来た時と、配置が変わっているはずはないので、同じ空間にいるはずなのに、なぜ配置に不自然さというものを感じたのだろうか?
 配置と言っても、そこに並んでいるものの並びではない。距離感だった。
 それは、目の錯覚と言ってしまえば、すべてを解決できるだけのものだったはずなのに、香澄は、目の錯覚という言葉で到底片づけることができないものを感じたのだ。
作品名:絵の中の妖怪少年 作家名:森本晃次