短編集34(過去作品)
冷静に考えれば仕方のなかったことである。しかし、私の中では自分が悪いという気持ちがそのままトラウマとなって残ってしまったようで、どうしても芸術家肌で、しっかりと自分を見つめる男性に惹かれる気持ちはあっても、男性というものに一歩踏み出せない自分もいる。
九州で声を掛けてきた柏木さんに、最初は男性として、今まで感じていたトラウマを見てしまい、殻から抜け出せない自分を感じていた。しかし、彼を見てすぐに現実的に戻ってしまった頼子を見ると、今度は私の方が柏木さんを気にし始めたのだ。カメラマンという特殊な職業が、芸術家肌でなければできないと思ったからで、いろいろな考え方を聞いてみたい気がしてきた。男性として見るよりも前に、芸術家肌の人間として。彼を男性として感じることがあっても、そこに違和感がなくなれば、私は完全にトラウマから抜け出せることができる。
私はこう感じている。
――トラウマのせいで、精神的に成長するはずだった何かが封印されて、中途半端な自分が出来上がっているのではないだろうか――
当たらずとも遠からじであろう。
大学に入って、なるべく人と話をして暗いという印象を払拭しようとしていた。だが本当にそれだけだったのだろうか?
頭の中でその瞬間瞬間を輪切りのようにして考える。
中学時代の私は、確かいつも何かにカリカリしていたような気がする。イライラしていたと言うべきだろう。完全に身体が女性としてできあがっていて、記憶にあるのは生理の時の鬱陶しさだけである。
裏を返せば、生理の時というのは一ヶ月のうちでも数日だけのことである。つまり生理の時以外の自分は何も考えておらず、そのために何も記憶に残ることはなかったのだ。本当につまらない中学生活をしていたのだろう。人から暗く見られるのも当たり前というものだ。
高校時代の私はそうだったのだろう?
高校の頃は、人から暗い暗いと言われ続けることにウンザリしていた気がする。中学時代の自分が嫌いだった。何も考えることなく過ごした時間がもったいなく感じていたように思うのだが、かといって何をしていいのか分からない。ますますまわりから暗いと思われて、気持ちは悪循環していることが分かっているだけに、苛立っていたに違いない。
本当に中学、高校と暗い時代だった。
大学に入り、一気に開放的になった私は、その時やっと自分のことが分かるようになっていた。長所にしても短所にしても見えてきたような気がするのだ。
短所に関しては、今まで嫌というほど見てきている。だがそのすべてが、「暗い」ということに凝縮されるのに対し、長所は今まで気付かなかったのは、表に現れていなかったからである。まったく自覚がなかったが、
「あなたって記憶力いいのね。羨ましいわ」
と、頼子に言われたのが最初だった。
頼子自体は、自分が物忘れの激しいことが短所だと思っているらしい。物忘れということと、暗記力とは違うもののようだが、頼子の場合はその両方に悩んでいた。
私は、暗記力に関してはテストでの成績を見れば、それほど悪くないことは分かっていた。しかし物忘れをしないことが普通だと思っていたので、頼子に言われた時、
「そうかしら? そんなものなのだと思っていたけど?」
と返すと、
「物忘れのないことはきっと特技の一つよ」
とまで言われてその気になっていた。
物忘れの激しいことは、頼子にとっては致命的な欠点だと思っているようだ。現実的で妥協を許さない頼子にとっての唯一ともいえる欠点である。
「あれこれ考えすぎるからじゃないの?」
「そうかしら? でも考えているから忘れないと思っているけど」
「気持ちに余裕がないと、何かあった時に考える場所がなくなるんじゃない? だから記憶の部分で考えてしまうのかも知れないわ」
それ以上言って考えさせると、ずっと考えていそうなので、やめておいたが、私も自分で不思議に思うことがある。
「人のことは簡単に分かるのに、どうして自分のことってよく分からないのかしらね」
「そこがあなたのいいところかも知れないわ。あなたは、人のことでも自分のことのように考えることができる。だから、人に的確なアドバイスができるんじゃないかしら」
頼子はそう言って私を見つめていた。
大学に入り、予想をはるかに超える人たちが、私のまわりに集まってきた。毎日が楽しくてたまらない。今までに知らなかった世界を知っている人たち、自分とは違った目で世の中を見てきた人たちと話すことがどれほど楽しいことか、時間を余るほど持っている大学生の私であっても、一日二十四時間では足らないと真剣に感じたほどだ。
私には何かが足りない。
大学に入り、自分の長所も短所も分かってきたつもりなのだけれども、何かが足りないという気持ちと、何かを忘れているという気持ちがどうしても抜けないでいた。
それはきっと私が芸術家肌の人に興味を持ちながら、自分が芸術家肌だと思えないところにあるような気がする。
柏木さんと話をしていて、話の中に引き込まれるようで楽しいのだが、どこかでモヤモヤしている自分がいるのが分かるのだ。
それは中学時代の、身体の変化に気づき始めた頃の自分に似ている。気付きそうで気付かないモヤモヤしたもの。きっと何かのきっかけで気付くのだろう。
その日、柏木さんとは、写真を貰って食事をした後、すぐに別れた。楽しかった話の余韻を残したまま、次に会うのを楽しみにして別れるのが一番いいと思ったからだ。
しかし、その時、そこまで考えられたかどうか疑問である。後から考えればそう感じたというだけのことだったのかも知れない。
その日、私は次に会う約束などすることなく別れた。そのうちに彼から連絡があるだろうとたかをくくっていたのだ。
しかしいつまでたっても連絡がない。最初の方こそ、時々気にする程度で、デートの楽しい情景を思い浮かべて一人でほくそえんでいた程度だったが、そのうちに毎日気になるようになり、次第に、頭の中で余裕がなくなってきている自覚を感じた時には、すでに気持ちに余裕がなくなっていた。すべてが上の空になり、自慢の記憶力も落ちてきたことが分かってきた。物忘れも激しくなり、
「これが頼子の状態なんだ」
と感じると、いてもたってもいられなくなり、貰った名刺のところまで自らを走らせていた。
今までの自分からは考えられない。モヤモヤしたものが最高潮に達している、
果たして柏木さんが事務所から出てきたところを発見し近寄っていくと、彼が私を見つけてくれる。私はその時できる限りの笑顔だっただろう。意識の外の笑顔だったので、引きつったりしていないごく自然な笑顔だったはずである。
――きっと優しく微笑んでくれるはず――
私の胸は高鳴った。
その時、私は初めて感じた。これが恋というものだと。男性を意識して初めて感じたこの気持ち、忘れていた何か、きっと恋に対する憧れだったのだろう。
しかし、その後がいけない。柏木さんの表情はまったく変わらず、私を見下すように横目で見ながら横を通り過ぎていく。見てはいけないものを見てしまった気持ちがこれほど辛いものだとは、その時初めて感じたのだ。
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次