短編集34(過去作品)
翌日行った黒川温泉は、また赴きが違っていた。入湯手形というものが発行されて、それを使えば手形一枚で、好きな温泉に三箇所まで行くことができるというユニークなものだった。各旅館やホテル自慢のユニークな露天風呂をそれぞれの好みで廻ることができるところに人気があり、特に若い女性にはその醍醐味を十分に堪能できる。私たちのような女子大生もかなりいるだろう。
さすがに疲れた身体に温泉は気持ちよかった。二個目の温泉に浸かってから、ゆっくり宿のロビーでくつろいでいる時だった。
「君たち、また会ったね」
後ろから男性の声が聞こえ、振り返った。最初は自分たちに声を掛けているなど思わずに、声がするので振り返っただけだったのだが、そこにいた男性に見覚えがあった。
「確か、民芸村のところにおられましたよね?」
「ご存知でしたか。嬉しいですよ」
男は肩から大き目のカメラを掛けている。ラッパのようなファインダーは望遠レンズだろう。サングラスを掛けていて、少し黒めの色が焼けた肌を写し出していた。少しボサボサな髪の毛が、芸術家を思わせ、あまり今まで馴染みのないタイプの人であった。
「カメラマンの方ですか?」
「ええ、フリーで風景や、観光客などを撮ってるんですが、今回は九州の温泉をテーマに巡っているんですよ」
「大変ですね。でも、やりがいあるでしょう?」
「そうですね。好きでやってることですからね」
男との話の主導権は、頼子が握っている。私はというと、どちらかというと人見知りするタイプで、大学のキャンパス内であればそうでもないのだが、特に初めて来た知らない土地では、言葉など出てくるものではない。
「好きでやっていると、結構自信も出てくるものですよね?」
「そうですね。向かい合うのは自然ですからね。私が一番見てみたい風景が、一番いいものだと思って撮っています」
男の顔が輝きはじめたのが分かる。話を聞いている頼子もすっかり話に嵌まっているようで、一人取り残された気分になった私だったが、話の内容を聞いているだけで、楽しくなれることもあることを感じていた。
「ところで、二人は大学生?」
「そうですよ。夏休みということで、出かけてきました」
「二人を見ていると、僕が初めて撮影旅行に出た時を思い出すよ」
「どういう意味でですか?」
今度は私が話に割り込んだ。
「お茶屋さんに入った時に、寄せ書きノートを熱心に見ていて、書いていたでしょう?」
「ああ……」
どうやら見られていたようである。
「僕も旅行に行くとよく寄せ書きノートを見るんだよ。そして一言書いてくる」
「どんなことを書くんですか?」
「一言だけ書くんだよ。そうだね、綺麗な風景を撮らせてくれた感謝の気持ちを込めてだね。それが一番素直な気持ちだと思うからなんだ」
「私も素敵な風景に感謝を込めて書きました」
私の顔を見ている男性のサングラスに私の顔が写っているように感じる。相手の目が見えるわけではないにもかかわらず、相手がどんな目で私を見ているか、興味津々である。
それからは、彼の写真に対する考え方であったり、旅行についての話だったりと、ほとんど私たちは、話に相槌を打っているだけだった。
どれくらい話していただろう?
「明日は南阿蘇に行くんだ。いい写真ができたら、送ってあげよう」
「ありがとうございます。私たちは東京からなんですよ」
「それじゃあ、向こうでも会えるね」
初めて会った人に連絡先を教えるのは怖いだろうということで、男の名刺だけを貰った。
フリーのカメラマンなので、会社の名刺とかではなく、いかにも安物のような紙にパソコンソフトを使って作ったのがすぐに分かる。名前を柏木吉信といい、右上に小さくカメラマンとある。
「連絡をくれるのを楽しみに待っているよ」
「ええ、分かりました。いい写真撮ってくださいね」
「うん、分かったよ」
「それじゃあ」
と言って立ち去ろうとした私たちがカバンを持とうとした瞬間である。目の前に白い閃光が光った。
明らかにカメラのフラッシュである。
「あっ」
言葉が早いか、顔を上げた先で柏木さんのサングラスがファインダーを覗いていた。
「失礼、でも、自然な感じがとてもよかったので、思わずシャッターを押したんだよ。自然な感じでシャッターを押す。これが僕の『こだわり』というやつだ」
そう言って、柏木さんは私たちの前からそそくさと立ち去っていった。
「どう思う? 凛子」
「どう思うって彼のこと?」
「ええ、何か軽そうじゃない?」
「そうかな?」
頼子の表情を見ていると、明らかに軽蔑の眼差しである。最初、会話に積極的だったのは頼子の方だった。カメラマンというと一種に芸術家である。いつも計算高く、現実主義の頼子には珍しく見えたのだろう。しかし、所詮現実主義者の頼子である。冷めるのも早く、きっとどこかの瞬間で男を見切ったに違いない。
「だって、最後なんて失礼よね。私たちの許可なく写真を撮るんだから」
私はあまり気にならなかった。特に旅行に出るといつもと違う自分を見せたり、普段知り合うことのないような人との出会いを期待したりするものである。カメラマンなど、普段出会えるものではなく、出会いということに関しては、私にとって嬉しいことである。
しかし、頼子はさらに冷静だ。最初こそ、出会いを喜んだかも知れないが、相手に対し、少しでも不信感を抱いたら最後、不信感を払拭するのは難しい。きっと頼子が誰かを好きになれば一途になるに違いない。そこが私と頼子の一番違うところである。
私はといえば、最初は警戒心を強くして、相手を見ているのだが、いつの間にやら相手のペースに巻き込まれることが往々にしてある。気がつけば相手を好きになっていて、気がつけば相手が私から去っていくということも何度かあった。
「あなたは、鈍感なのよ」
「そうかな?」
「あなたは物静かだから、男性には神秘的に見えるのかも知れないわね。それはあなたの長所なんだけど、実際に自分の気持ちにあなたが気がついてないと、相手も不安になるんじゃないかな? あなたがどう思っているか分からないって」
「うん」
そういえば、私が考えていることが分からないって言われたことがあった。私からしてみれば、
「あなたの気持ちの方が分からないわ」
と言いたくなるほどだったが、喉の奥にしまっていた。
その時初めて、友達に言われて自分が鈍感であることを悟った。それまでは、相手の気持ちを分からないのは、相手が悪いと思ってきたからだ。それだけ内に籠もっていたのだろう。内に籠もっているから、自分の本当の気持ちを発散できないし、私も気持ちを表に出せないのだ。
しかし、そんな自分を変えようと大学に入って解放的になった私。おかげで頼子を初めとしてたくさんの友達もできた。
――頼子も極端なところがある――
とは思ったが、私にとってはちょうどいいのかも知れない。お互いに惹きあうところがあるはずだ。
――頼子のいいところは、鋭いところだ――
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次