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短編集34(過去作品)

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 一人暮らしは大学の頃からしているので、休みの日など、釣りに出かけない日は、必ずこの馴染みの喫茶店にやってきていた。
 実は私も二十代後半には、馴染みの喫茶店を持っていた。マスターの性格からか、一度足を踏み入れて話が合えばすぐに常連になれるという雰囲気を持った店だったのだ。話が好きで、しかも饒舌なマスターと話をするために、何人の常連がいたことか。もちろん、常連同士にも仲間意識があり、マスターからの話以外にも話の花が咲いたことは言うまでもない。
 その店のマスターこそ、釣りには目のない人で、カウンターの奥に釣竿やルアーが飾ってあった。一時期ブラックバス釣りに凝ったこともあるらしく、その話に花が咲いたのがやはり一番だった。
「ブラックバス釣りの好きな人が多いとは聞いたことありますが、これほど身近にたくさんいたとは知りませんでした」
 と私が話すと、
「意外と多いですよ。自分から話すことがないだけで、一人が話し始めると、あっという間に輪ができて、話題が尽きなくなるものです」
「へえ、そんなものなんですかね?」
「どうですか? 今度ご一緒しませんか?」
「あ、その時はよろしくお願いします」
 と言ったが、実際はそれほど時間が取れるわけでもなく、適当に話を合わせるだけにしようと思っていた。しかし、それから数回行くことになったのは、皆の話が楽しそうだったこともあるのだが、何よりも話をしている時のイキイキした眼差し、それが一番だっただろう。
 まだまだ素人とはいえ、かじっただけでも小説のネタにするには十分だ。しかも山奥の森に囲まれた池というシチュエーションはとても興味がある。普段の生活から離れたいと思っている人は、少なくないはずだからである。皆現実逃避を夢見、それができずに結局ストレスを溜めたまま生きているのだ。作家が読者に与える現実逃避というエッセンスを、どのように読者が消化してくれるか、それが作家の醍醐味でもある。
 小説の中での喫茶店は、白壁が鮮やかな雰囲気のところをイメージしていた。
 私が馴染みになった喫茶店、ここはさすがにバス釣りの好きなマスターらしく、バンガローをイメージさせる造りで、元々、好きな雰囲気だったこともあって、最初に入ったきっかけが、バンガローの雰囲気に魅せられたからだった。店内に入ると、木の香りが漂ってきそうで、それが嬉かった。
 その頃の私は、精神的に情緒不安定だったかも知れない。自分に自信を持つことが一番大切だと思っていた時期だった。
「この間はおめでとう。あと一息だね」
「あ、いえ、ありがとうございます。でもこれから先が長いですよ」
 あれは、今まで投稿しても一次審査で、ことごとく落選していた時期だった。そんな時、一次審査を二回続けてパスしたことがあったのだが、喜んでマスターに話したものだ。もちろん、私は嬉しかった。通過の通知が来た時などは、完全に有頂天になって、誰かれともなく話したかった。マスター以外に話した相手はいなかったが、それは正解だっただろう。その日と次の日くらいは仕事が手につかないほど興奮していたことを今さらながらに思い出す。
「そうかい、よかったね」
 最初の報告に淡々と答えたマスターの返事が他人事に聞こえたくらいである。
――どうしてもっと喜んでくれないんだ――
 と思ったが、興奮が冷めてしまえば、当然なんだと思える。
 興奮は一気に冷めてくる。きっといろいろなことが頭をよぎるからだろう。それだけいつもいろいろ考えているのだろうが、
――もっと続いてほしかった――
 とは決して思えない興奮である。
 たかが一次審査をパスしたくらいで、有頂天になるのは早すぎる。ここから先が難しいのだ。しかも真剣に作家の道を模索している私なので、賞を取ったとしてもそこから先が大変なことは分かっている。
――審査通過しない時の方が漠然と楽しみがあった――
 とまで興奮が冷めた頭が考えるのは、考えすぎだろうか。
 それともう一つ、少しずつ上っていけばいくほど不安が募ってくるのも、私の性格だった。
 元々、人からのアドバイスや助言を素直に聞く方ではなく、いつも怒られていると感じる性格に辛さがあった。小さい頃にはよく怒られたものだ。整理整頓ができない性格などを指摘されて、
「どうして、お前は言うことを聞かないんだ? 言いたいことがあったら言いなさい」
 と言われても、言い返せない。
「散らかってないと不安だから」
 と言いたいのだが、
「そんなのは屁理屈だ。皆キチンとしてるじゃないか」
 と言われれば、それ以上言い返せない。
 口で負けることは分かっていた。特に、いつもいろいろ考えていて、先を読むことに慣れているので、余計に言葉が出てこないのだ。それが私の性格の外壁を形成していく。
――人に責められると言い返せない性格――
 自他ともに、感じている。
 私の小説に出てくる主人公は、大なり小なり、この性格を持っている。表に出てこなくとも、最後にこの性格が災いして犯罪の動機になったりしている。言葉に出して表現しなければ相手に伝わらないのが分かっているくせに、出せない辛さをどう表現するかが、難しいところであった。
 得てして文字にすることは、言葉に出すより簡単だ。気持ちを表現できるからで、気持ちの変化を、そのままストーリー展開に結びつける話も何度か書いている。まるで原稿用紙やモニターが、自分を写す鏡のようである。
 情緒不安定ということは、それだけ不安が大きいということだ。漠然とした不安であるが、不安がない時期など、考えてみれば今までに一度もなかった。考えなくてもいいことを考えて不安に陥ってしまう。私だけではないだろう。人と話しても、同じことを言っている。私にとって不安解消は文字として表現することなのだ。
「がんばってくださいね」
 マスターが励ましてくれる。
 同じ言葉でもマスターの言葉には安心感がある。私が気に入って馴染みになったお店のマスターだからであるが、すべてを受け入れてくれそうな雰囲気もある。この店に来ていれば、他の友達や好きな女性がいなくとも寂しさのようなものを感じなくて済みそうだ。
 しかし、身体の寂しさは如何ともしがたく、女性を欲しがるのが分かっている。時々、スナックなどに行って、女性に声をかけることもあり、着いてくる女性もいたりする。
――身体だけの付き合い――
 数回会うだけなのだが、決してお互いに深入りしない仲が心地よい時期だった。気持ちを表に出すことをせず、相手も詮索しようとしない。聞こえは悪いが、需要と供給が一致した身体を使った「契約」のようなものだ。
 ミステリーを書けるようになった理由に、女性が絡んでいることは分かっていた。しかし思い出そうとしてもその女性の顔を思い出すことができない。雰囲気は何となく覚えているのだが、顔だけがぼやけている。まるでシルエットのごとく映し出された輪郭は、丸みを帯びていて、ふくよかさを感じさせる。
「あなたは私を覚えていないの?」
 確かに彼女はそう言った。最後に抱き合った日のことである。それから彼女とは会っていない。別れたと思っていたが、ハッキリ別れたと認識していない不思議な別れ方だった。
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次