短編集34(過去作品)
やはり思ったとおりの答えだった。司会者は夢に出てきた作家のその時の顔を、今まさに見ていることだろう。テレビカメラを通してでも何となく分かるが、スタジオから喧騒とした雰囲気は消えて、皆作家の顔を凝視しているに違いない。
私はしばしテレビのブラウン管を見つめていた。そこから先は、あまり興味深い話は聞かれなかった。それだけインパクトが強く、テレビはつけたままでブラウン管を見つめているが、内容は後で覚えていないだろう。まるでCMを見ている感覚である。
私が小説家としてデビューするまでに、もう一つ難題があった。
元々、整理整頓が苦手で、何事にも無頓着な性格が災いしていたような気がする。
部屋の中は荒れ放題、足の踏み場のないくらいで、特に原稿用紙や、筆記具、参考文献として利用した本や雑誌の類が、散らかりまくっている。
昔から少しくらい散らかっていないと落ち着かなくて、ものを捨てるにも、どれを捨てていいか分からずに結局捨てられずそのまま溜まってしまう。綺麗でいると、却って気持ち悪いくらいなのだ。
一人だからいいのだろうと思う。もし、嫁を貰ったりして整理整頓されると、最初はいいかも知れないが、途中で気持ち悪くなり、結局散らかしてしまうだろう。
「灯台下暗しなんだよ」
友達と話したことがある。
「どういうことだい?」
「散らかっていないと気持ち悪いくせに、探し物をすぐに見つけることができない。探し物をする時に限って、目の前にあったりするもんなんだ。おかしなものだろう?」
「そうだね。まるで笑い話みたいだ」
「ああ、今もこうやって話していて、目の前にある大切なものを見逃しつづけているのかも知れないな」
そう言って私は笑ったが、心底笑えなかったように感じたのは気のせいであろうか。
小説家としてデビューできた私だが、その問題は残っている。
相変わらず、捨てることをせずに、溜まり放題になっていて、部屋の中には、ものが溢れている。持って生まれた性格と思っているが、考えてみれば文芸雑誌に載っている作家のお部屋拝見コーナーの写真でも、荒れ放題の部屋で作家がカメラに向かって微笑んでいるのをよく見るではないか。膨大な資料を消化しきれないまま、ストーリーを組み立てる。それが作家というものかも知れない。
それよりも私が作家として疑問を抱いていることは、発想の限界や、体験からの執筆に対してである。確かに発想から想像力を生かし、ストーリーを組み立てていくのが作家の仕事であるが、それにも限界がある。ミステリーを書く上で、主人公だけの気持ちになるわけにはいかないということである。主人公を探偵や刑事に置いたからといって、犯人の性格や心理描写を無視できるわけでもなく、しっかり描かないと偏った見方になってしまう。
ストーリーを整理しながら書かなければいけないという、私のもっとも苦手な作業が入ってくる。整理整頓の苦手な私は、膨大な発想の中から一つの筋を組み立てることができるかどうかが、作品を生み出す上での一番の課題となるだろう。
最初に考えた発想や情景が、ずっと頭の中に残っているということが、往々にしてあるものだ。たとえば私の場合、山奥のバンガローだったり、森に囲まれた湖だったり、はたまた、自分の背よりも高いすすきの穂が果てしなく続く高原だったりする。
そういえば、私の中で海という発想はない。
潮の匂いが苦手で、特に湿気が多く、身体にベタベタとへばりつくような感じは、体調を悪くするものだ。小学生の頃、夏になって海に連れていってもらうと必ず発熱していたことを思い出す。海とはそんなイメージなのだ。それだけに自分の頭の中から出てくる発想として海があるはずはない。舞台は山、季節は秋、果てしなく続くイワシ雲、そんな情景を見ながらの発想が、私の発想である。
その日の私はバンガローを思い浮かべていた。
実際にバンガローに入って泊まったことはないが、それだけに未知なる発想を呼び起こすことができる。
――前に来たことがあるような気がする――
という発想が浮かんだ時、深まりつつある秋を思わせる紅葉が、黄色から紅へと窓の外の風景も変わってくるのが分かる。葉っぱが揺れていて、今にも落ちそうな様子を見ているだけで肌寒さを感じる。
ブルッと震えが来るが、暖炉では火が焚かれている。蒔きがパチパチと音を立てて崩れる音を感じるが、表を見ていると自分のいる場所だけ、暖かさが来ていないような錯覚に陥る。そこで沸き起こる胸騒ぎ、何かが思い浮かびそうな気分になれる。
それが私の執筆のイメージかも知れない。
改まって考えたこともなかったが、こうして順序だてて考えてみると面白いものである。
私は時々「予知夢」というのを見ることがある。
後から考えて、
――あれが予知夢だったんだ――
と思うのであるが、夢を見ていて、それが予知夢であると感じることもある。
潜在意識の中でしか、夢とは見ることのできないものだという発想を持っている自分が信じられなくなる瞬間でもある。
それは自分が損得勘定で生きる人間だと思い始めてから感じることだった。
一時期、社会人として人の下で使われることがあったが、いずれは、
――人に使われないで、自分一人で気ままに生きていきたい――
と考えるようになっていた。人に使われることが嫌いだったというよりも、自分の意見が最大限に生かされる生き方がしたかったというのが本音である。
自分一人で気ままに生きたいと考える人の中には、私と同じ考えの人も多いだろう。しかし大部分は、
――人に使われるなんて、まっぴらだ――
と思っているはずである。
私は自分で独立して小説家になった。使われて働いている時よりも自由であるが、その代償として残ったものが、将来への不安だった。普通に働いていればリストラなどのような事態もあるだろうが、いきなりの解雇はないだろう。だが、
――小説家は小説が書けなくなったらどうなるのだろう――
という不安が絶えず付きまとう。サラリーマンであれば、一通りのことができれば違う会社でも十分にやっていけるが、個人事業はそうもいかない。それが言い知れぬ不安として残る。それに気付くのは、作家として自信がついてからというのも、皮肉なものだ。
そして、将来への不安とともに、いや、もっと辛いかも知れないのが、寂しさである。同じような気持ちでいる仲間がすぐそばにいるわけではない。たとえいたとしても、お互い個人事業、どうしてもライバルとして意識してしまう。ライバルに弱みを見せられないという気持ちもあれば、お互いに自分しか分からない悩みだと熟知しているのか、なかなか話せるものでもない。分かるからこそ話せないのだ。
寂しさは孤独感となり、孤独感を払拭しようと自分のまわりに壁を作る。悪循環なのだろう。自分の弱みを見せたくないという感覚が、感情を麻痺させる。喜怒哀楽や感情を小説世界で表現しようとするため、表に出す性格はオブラートに包まれていることだろう。
愛や同情などという言葉は小説でしか使わなくなり、机上のものだけになってしまう。紙の上だけで展開される気持ちだからこそ、自由な発想が生まれ、いい作品ができる。
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次