短編集34(過去作品)
「あなたが怖いの、今までしたこともないような顔をするのよ。何かに怒っているのか、怯えているのか、とにかく怖いの」
私はハッとした。何かに怒っていたり、怯えていたりすれば、自分で分かるというものだ、しかし、私にはその時に怒ったり怯えたりといった心境はないはずである。一人だけなら、
――錯覚ではないか――
という言葉で片付けられるが、ほとんどの女性がそういうのだから、不思議なことである。
中には積極的な女性もいた。とても雰囲気を大切にする女性で、会う時は必ずバーのようなところが多かった。私も嫌いではない。それが彼女の性格であり、そんなところが魅力の女性である。初めから妖艶さを、醸し出していたのだ。
今、付き合っている女性は、何の特徴もない女性で、どちらかというと今までに付き合った中では、そういう意味で特異なタイプであった。大人しいといえば、その一言に尽きるのだが、時々見せる寂しそうな表情が、この上なく妖艶な雰囲気を漂わせる。
付き合いはじめてからそろそろ一年が経とうとするのに、いまだに最初に出会った頃の雰囲気をそのまま持っている。「従順」という言葉がこれほど似合う女性も珍しい。私が離れられない理由である。
数回会って、身体を重ねた。寂しそうな顔に妖艶さを初めて見せたのが、その時だったと記憶している。
――もうそろそろ彼女を抱きたい――
と思っていた頃だったので、私の気持ちにピッタリな表情を示した。
腕を組んで歩きながらホテル街へと向っても、彼女に何ら抵抗する意志はなかった。じっとしがみついて一緒についてくるのだが、まるで最初から覚悟はできているようだ。
部屋に入ってからも、これといって自分の気持ちを表に表わそうとはしない。私のなすがままに、生まれたままの恰好になった彼女は、それからもすべて私に任せきりだった。時折押し寄せる波に身体を震わせて反応するのが、却って新鮮に見えた。
「ビクッビクッ」
震える肌が私に興奮を与える。男というものは、女性のそんな反応が嬉しいものだ。自分の行動が女性に喜びを与えているんだと思うと、それだけで、爆発しそうになってしまう。
タップリとある時間の中で、お互いに興奮を高めあい、相手が迎える絶頂とともに、私も彼女の中で果てた。一気に訪れる脱力感、そこから起こる睡魔には勝てなかった。横でグタッとしている彼女を見ながら、眠りに落ちていくのを感じていた。お互いに満足しきっているのが分かっている。
その時に夢を見たのだろうか?
見たような気もするが、ハッキリしてくる意識の中で、
――目が覚めちゃった――
という悔しさのようなものがあった。
真っ暗な中で覚めてくる意識、自分がどこにいるのか、最初はよく分からなかった。身体がまだ興奮を覚えているのか、カサカサとシーツがこすれる感覚はあまり気持ちのよいものではない。何度となく欠伸をすると、涙が自然にこぼれてくる。無意識に流れる涙をこすっていくうちに、ゆっくりと状況が分かってくる。
なかなかすぐに目が覚めないのは、やはり、眠りに落ちるまでが激しかったからだろう。しかし、目覚めは決して悪いものではない。頭の中がスッキリしていて、きっと適度な眠りに就いていたに違いない。
枕元の時計を見ると、すでに朝方が近かった。ホテルに入って朝まで起きずに、ぐっすり寝ているということも私には珍しいことだ。久しぶりだったこともあるのだろう。
横を見ると、彼女はおらず、シャワールームから勢いよく落ちる水の音が響いていることから、先にシャワーを浴びているようだ。真っ暗な部屋にシルエットとして浮かぶ擦りガラスの向こうで、怪しげに裸体が揺れている。
むず痒い目をこすりながら見ていると、時間が経つのを忘れてしまう。少し寒さを感じるのは気のせいだろうか? 身体に残った敏感さが私にそのことを教えてくれる。思わずシーツを身体全体に被せた。寒さを感じるのは、
――まだ彼女の身体が纏わりついているようだ――
という感覚に支配されているからなのだろう。
シャワーの流れる音が止まった。音が静かになり、やがて訪れる静寂に果てしない闇、シャワールームの照明が消えると、一気に暗闇が襲ってきたが、それは最初だけで、目が慣れてくると、そこに映し出された彼女の白い裸身が眩しい。
「あなたもシャワー浴びてきてください」
「いや、僕は後でいい」
「いや、浴びてください」
「よし、分かった」
強い口調に半分驚いて、私はシャワールームに消えた。彼女は私と入れ替わりに、シーツに包まっているようだ。一通り汗を流し、スッキリしたところで再度私もシーツに忍び込む。あれほど、火照って熱かった彼女の身体を感じないのはなぜだろう。暖かさをほんのりと感じるだけで、心地よい暖かさだ。これが本来の男女が求め合う暖かさではないだろうか。思わず、自分の両腕が彼女の腰を抱いていた。
お互いに見詰め合っていた。穴の開くほど見つめる瞳のその先に、私の顔がある。その表情は落ち着いているようだ。
「安心したわ、それがあなたの顔なのね?」
「どういう意味だい?」
「さっき寝ている時のあなたの顔、とても怖かったわ。まるで怖い夢を見ているような感じがしたわ」
「夢は見ていないと思ったんだけどね」
怖い夢というのは得てして内容を覚えていなくとも、見たことだけは分かる。起きてからいい知れぬ恐怖心が残っていて、グッショリ全身に掻いた汗が証明してくれる。
しかし、先ほどの目覚めに怖い夢を見ていたという感覚は、微塵も感じない。息が切れているわけでもなく、必要以上に喉が渇いているわけでもなかった。ゆっくりと戻りつつある現実の世界への入り口に、心地よささえ感じていた。
「見ていないと思っているだけで、実は夢を見ていたのでは? 怖い夢だから無意識に忘れようとしているとか?」
小学生時代ならあったかも知れない。夢で見たことの怖さが実感として湧いてこないからだ。何が本当に怖いことなのか意識の外にあったからだろう。だが、怖いものを怖いと感じる今であれば、怖い夢を見た後の目覚めは、何らかの痕跡がある。それを感じないということは、やはり怖い夢は見ていないということだろう。
私がミステリーを書けるようになったのは、彼女と別れてからだった。
私の中で、彼女との最初の一夜がくっきりと残っている。
「怖い夢だから、無意識に忘れようとしている」
という言葉が引っかかっている。
あるミステリー作家の言葉を思い出した。
それは、トーク番組でのことだったが、司会者の、
「どうして、ああいう素晴らしい発想が出るんでしょうか?」
という、罪のない漠然とした言葉に、少し苦笑しながら、
「私は、書いている時、殺人者にも刑事にもなれる。しかし、いざ原稿用紙の前から離れると、普通の人間に戻ってしまう。臆病で、そして怖がりで、とても正義感の元に命を張るなどできない男なんですよ」
と、話していた。
「ということは、どういうことですか?」
きっと視聴者にも意味が分かっていないだろう。司会者は、視聴者を代表して聞いているようだ。
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次