短編集34(過去作品)
夢現表裏
夢現表裏
「う〜ん」
朝起きて、恒例になっているのは、自分の顔を鏡で覗くことだった。いつものように唸り声を上げて、右に左に鏡の中で向きを変えて見つめる。その表情は、怒っているわけでもなく、喜んでいるわけでもない。悲しい表情でもなければ楽しそうでもない。喜怒哀楽のハッキリしない、いわゆる無表情なのである。
しかし、一歩表に出て、人と会ったりすると、
「いつも怖い顔してるな」
「本当に楽しそうね」
などと人によって見方が違う。いや、人によって見方が違うというよりも、時期によって違うと言った方が的を得ているだろう。
私は名前を北原白山、といってもこれはペンネームで、本名は林隆一郎という。職業は作家で、主にミステリーなどを書いている。
三年前までは、百貨店で外商の仕事をしていたが、趣味で書いていた小説を文学賞に投稿したところ、うまく入選を果たし、出版までこぎつけることができた。それに伴い、脱サラをして現在に至っている。サラリーマンをしていても、この不景気の折り、昔ほどの安定感はない。そう感じて、一大決心の元の脱サラだった。
年齢的にもそろそろ四十歳に近くなっていて、脱サラがよかったのか悪かったのかは、いまだに分からない。作家になってからも毎日が試行錯誤の繰り返しで、そんな精神状態が顔に出るのだと思っていた。
私が自分の顔を鏡で見るようになったのは、それからだった。時期としてはいつ頃からだったのだろう? ハッキリとは覚えていない。だが、鏡を見つめ始めて自分の顔に変化が起こっていることに気付いたことはない。いつも無表情で、自分の感情が露になった表情を見たことがないのだ。
ミステリーを書くようになったきっかけは、中学時代に読み漁っていた作家の影響である。だが、今の自分の作風とはかなりの隔たりがある。あくまで書こうと思ったきっかけになっただけで、私の作風ではない。読み漁った作家の作品は、トリックに重点を置いたものが多く、どちらかというとストーリー性より、トリックに目が奪われがちで、華やかではある。しかし、それだけに見た目はハデだが、奥深さに欠けるところがあった。それは、大学時代になって読み始めたミステリーが、少し社会派的であったり、日常生活の身近なところをテーマにした作品と見比べて気付いたことだ。
――大人の小説だな――
紳士が読む小説という印象を受けた。テーマが身近なものであったり、トリックなど、ハデな内容ではないため、少しインパクトに欠けるが、サスペンス性とストーリー重視なところが大人の小説を思わせるのだった。
中学時代から、ハデな内容のトリックを使った小説を書こうとしてもなかなか書けなかったが、大学の頃に読んでいた小説のような内容なら、
――僕にも書けそうだ――
と、再度執筆に挑戦した。
どちらかというと社会派小説より、身近な、例えば家庭や学校をテーマにしたストーリーを考えることはそれほど苦にはならない。
――僕は自分の経験や、考え方をモチーフにしないと書けない方だ――
と自覚している。そういう意味で小さい頃からいろいろ頭の中で考える性格だったことが、功を奏しているようだ。
子供の頃から、一人でいる方が多いような子供だった。
今のようにパソコンがあったり、ゲーム機があったりした時代ではない。子供というと、近所の公園や空き地で野球をしたりサッカーをしたりして遊ぶのが普通の風景だった頃である。そんな頃でも、あまり友達と遊ぶこともなく、一人でいることが多かったのは、いろいろ頭で考えていることが多かったからだろう。
では一体どんなことを考えていたのだろう?
その頃は順序立てて考えていたと思うのだが、何十年も経った今では、それを再度組み立てるのは不可能に近かった。
だが、組み立てると、きっと算数の数式のように、規則的に繋がったものが出来上がるのではないだろうか。算数というのは、たった一つしかない答えを導きだすのだが、それは幾通りあってもいいのだ。理論さえ間違っていなければ、しっかり正しい答えが導き出せるはずなのだ。それが規則的に並んだ数字のマジックであり、そんな教科が小学生の頃一番好きだった。
ミステリーというのは、学問でいえば算数のようなものではないだろうか。同じ数字を扱うにしても、かっちりとした公式に当てはめて解こうとする数学とは違う。あくまで自由な発想が求められる算数でなければならないのだ。
私はまだ独身である。
もちろん、女性と付き合ったことがないなどとは言わない。現在の執筆活動では、一人身の方が楽だからである。別に食事など適当にコンビニで揃えれば済むことだし、掃除、洗濯も一人暮らしなら、たかが知れてる。まかないさえ気にしなければ、今の収入で十分やっていけるのだ。下手に結婚などすれば嫁の収入の期待もしなければならず、鬱陶しく感じるだろう。そして何よりも子供ができてしまうと、執筆活動どころではなくなり、自分だけ、ホテルや旅館の部屋を借り切っての執筆になることは目に見えている。
私は神経質で、ちょっとした音でも気になってしまう。耳栓をしての執筆が当たり前となり、今では耳栓をしないと物足りないくらいだ。子供の泣き声などもっての他で、執筆さえなければ子供が好きな性格なだけに、きっと自分が許せないだろう。それだけに、嫁に、
「私、子供がほしいの。ねえ、いいでしょう?」
などと囁かれて断れるだけの自信がない。そんな優柔不断なところも、我ながら許せないはずだ。とりあえず、今は一人での生活に不自由はないし、結婚してからの苦労に比べれば、今の方がずっと楽だという計算が成り立つ。
私は計算高い方だ。算数が好きだったことが、ある意味、ミステリーを書く上で役立っている。理詰めなストーリー展開は小気味よさを呼び、心地よいテンポを与えてくれる。私の小説にはそういうところがあるのだ。
「北原先生の作品の小気味よさが好きです。これからもがんばってください」
などと書かれたファンレターに、
「ふふふ、なかなか分かっているじゃないか」
と思わず零れる笑みを抑えられずに呟いたものだ。
小説は読み手があって成立するもの、ファンの声と自分の考えが一致する時ほど、物書き冥利に尽きることはないだろう。
私は女には不自由していない。
かといって、プレイボーイというわけでもなく、別れがあると、すぐに出会いもあるのだ。自分から探しているわけでもないのに、出会いの方から私に向かってくる。
付き合っている期間もさまざまだ。二年以上付き合うような長い女性もいれば、数回会っただけで私から離れていった女性もいる。数回で別れた女性の中には身体を重ねることなく別れた女性もいるが、もったいなかったとは思わない。
――きっと、僕には合わなかったんだ。身体を重ねたって同じことさ――
と感じる。あくまでも身体を重ねるのは、相手が自分と合う女性だということを確信しないと、私から誘ったりしない。私が好きになる女性も同じ気持ちらしく、私を理解することなく私に迫ってくる女性はいなかった。
彼女たちが、私と別れる時のセリフは、いつも決まっていた。
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次