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短編集34(過去作品)

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 男は立ちあがった。その立ち上がり方も、何か魂が抜けてしまったかのように力のないもので、ゆっくりとしたスピードはまるで月面を思わせる。完全に力なく立ち上がった男は踵を返し電車の方へと歩み寄る。
「あれ?」
 思わず三浦氏は叫んでしまった。その顔に懐かしさを感じたからだ。いや、懐かしさというよりも見覚えのようなものがあるというべきか、その顔は見知った顔ではあるが、あってはならない顔であった。
――世の中には似た人が三人いるという話だが、あまりにも生き写しではないか――
 と感じていた。生き写しというよりも、死んでしまった人に似ているのだ。最初に見た後ろ姿は完全に三浦氏とほとんど変わらない初老の、しかも少しくたびれた男に見えたが、正面を向いたその顔は、まさしく自殺した友人のその時の顔である。
――しかし、よく思い出せたものだ――
 そう感じるのも仕方のないこと。何しろ断末魔の最後の顔を見てしまったのだから、その顔が目に焼きついてしまっていて、普段の顔を思い出すことができないでいた。それがそのままトラウマのようになり、わざと思い出すことをしなかった。それが思い出せたのである。それだけ時間が経ってしまったということだろうか。
 いや、時間だけではない。それだけ三浦氏が歳を取った証拠かも知れない。人生も働ける時代を生き抜いて、抜け落ちた髪の毛に未練を感じている普通の老人に次第に近づいていくのだ。
 しかし、彼は明らかに自殺に成功し亡くなったのだ。ここにいるはずがない。これは幻か、本当によく似た人がいるだけのことなのだ。そう考えると顔を見た瞬間の驚きも次第に冷めていき、気持ちも落ち着いてくる。だが、目だけは逸らすことができなかった。三浦氏の目は男を捉えたまま、電車の発車が近いことを意識しながら、その状況の中に身を置いていた。
「早く発車しないだろうか」
 心の中でそう叫びながら、目だけは追いかけている。そんな状況を楽しんでいる自分に気付くが、次第になかなか発車しない電車に業を煮やしていた。思わず腕時計に視線を落とした。
「ほとんど時間が経っていないではないか」
 じっと見続けているわりに、時間は数秒しか経過していないようだ。
――夢でも見ているのかな――
 夢は目が覚める寸前の数秒に見るものなのだということを聞いたことがある。それからの三浦氏は夢に対する見方をその考えで固めているので、目が覚めるにしたがって夢は忘れていくものだということを自然に受け入れるようになっていた。
 では、現在目の前に現われた友人に似た男はどうなのだろう。今見ているのが夢だとすれば、それで何もかも辻褄が合うように思えてならない。そう考える方がすべてに納得がいくし、きっと何か思い出すところがあってそんな夢を見たと考えるのが自然でもある。
 しかし、それだけでは三浦氏が納得していない。
 まず、今までトラウマのように思ってきた友人の普段の顔をいくら時間が経ったからといって、簡単に思い出すことができるだろうか、ということである。そう簡単に思いだせるのであれば、今まで何度も思い出しているはずである。そう考えると、本当に似た人が現れたことで、無意識に頭の中に封印したはずの友人の顔を思いだしたとしても不思議ではない。
 もう一つの考え方として、目の前に現れた男が、まったく友人と似ても似つかぬ顔ではないかということである。
 後ろ姿を見ている限りではくたびれた老人であった。その後ろ姿に見たものはあるいは自分の姿だったのかも知れない。本当にくたびれた姿だった。背中を丸め、人生に疲れ果てていることを背中が訴えている。今にも電車に飛び込みそうな雰囲気すらあった。
――自殺?
 その時に無意識に感じなかったと言えようか。自殺といえば、思い出すのが断末魔の表情、だが、それこそ月日は流れている。トラウマとして残ってはいるが、最近ではその表情を忘れかけている。そこで思い出すのが彼の生前の顔だった。
 これはあまりにも自分に都合のいい解釈だった。だが、それも理屈に適っているような気がして仕方がない。
 まったく見知らぬ男の後ろ姿に友人を感じる。そして振り返ったその顔は生前の友人だった。それこそ夢かも知れない。
 どちらにしても、今の三浦氏には亡くなった友人のイメージがハッキリとよみがえっていた。その顔には表情はなく、顔色も感じられない。知っている顔というだけで、知らなかったら意識すらしない石ころのような存在で、気にすることもなかっただろう。
 しかしなぜ幻にしても、今さら十年以上も前に亡くなった友人を見てしまうのだろう?
――いよいよ私も自分の人生が見えかかっているのだろうか?
 と考えたりもする。過去のことが夢で頻繁に出てきたり、昔の思い出が走馬灯のようによみがえってきたりすると、死が近いという話を聞いたことがある。
 歳を取れば子供に帰るという。それだって、自分の人生の先が見えてくるからではなかろうか。そう思えばこそ、頭のことも最近また気になり始めたのだし、若かった頃を思い出すことが多くなった。
 まるで若かった頃のようなことができるかも知れないとも感じるほどで、できるできないは別にして、恋愛感情を抱いて思わずほくそえんだりすることもあるくらいだ。
 だが、それは必ず釣りに出かける時だけで、それ以外の時は、何に関しても関心を抱かない無関心な男がそこにはいるだけなのだ。
 趣味がなければどうなっていただろう?
 路頭に迷っていたかも知れないとも感じるが、それすら信じられない。何とか最悪のシナリオを描くことなくここまでやってこれたのは幸運だったとしか言いようがない。悪運が強いというべきか、何事にも無気力だったことが幸いしたのではないかと思うのは皮肉なことである。
――きっと余計なことを考えないのがいいのかも知れない――
 我ながらそう感じるが、それとてすべて先が見えてきたと思ってから感じたことだ。
 駅で座っている男がこちらを見て微笑んでいる。眩しい電車の窓なので、表から三浦氏の顔が見えるわけがない。それでも目が合っているのだ。彼はいったい誰を見ているのだろう。
 何か不思議な思いを感じながら電車は目的地に到着する。
 すでに日は落ちていて、夜釣りを楽しむにはちょうどよかった。宿で荷物を置くと、釣竿片手に肩からはボストンバッグを掛けていた。防波堤に腰を下ろすと目の前には街灯で照らされた海面が小刻みに揺れている。内海のせいもあって
「タプッタプッ」
 と防波堤に打ち寄せる音も大人めである。
――それにしても、なぜ今さら思い出すのだろう――
 釣り糸を見ながら考えているが、結論としては、
――お迎えが近いのかな――
 としか思えなかった。無気力だったはずの自分が釣り糸を見ているうちに汗を掻いているのを感じる。死ぬことが怖いのだ。あれだけ死ぬことすら運命に任せればいいとまで思っていた自分が、いざとなると臆病風に吹かれることを知った。
 知れば知るほど死が怖い。特に今まで何にでも無関心だっただけに、急に真剣に考えると余計に恐ろしいのだ。
――いったい、死の何か怖いのだろう――
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次