短編集34(過去作品)
夢というのは目が覚めるにしたがって忘れていくものだが、目が覚める時に見える天井の模様が次第に歪に見えてきて、断末魔の表情に変わってくる。まるで、ムンクの「叫び」を見ているようで、ドロドロした感覚が胸の奥から湧き出してくるようだった。
天井から液体が染み出してきて、それが落ちてくる。そんな錯覚に襲われ、真っ黒く見えた液体が下に落ちてはじけると、それは真っ赤に変わっている。
首を吊っていたのだから、鮮血を見たわけではない。しかし、記憶の中では、彼の額や目から真っ赤な液体が流れ出ている感覚が焼きついているのだ。
その表情が虚空を睨み、まるでこの世に未練たっぷりな表情に思えて仕方がない。なぜ自殺などしたのかハッキリとした理由が分からなかったからだろう。三浦氏には彼が未練を残して死んでいったように思えてならない。
三浦氏の場合も、この世が儚いものだと思っている。生きていてもどうしようもないと思ったことが何度もあるが、死ぬ勇気すらない。何しろ無気力なのだから……。
夢で見たということは、友人があの世から誘っているのだろうか?
手招きをしていたようにも思う。しかし、所詮夢なので、手招きをしていたように見えただけだ。亡霊だと分かって見ている夢なので、信憑性など何もない。それを感じるということは、三浦氏も夢の中では死を怖がっていないのだろうか?
いや、そんなことはないだろう。夢は潜在意識が見せるもの、本当の意識でしか考えることができないのだから、怖がっていないわけがない。それだけ夢の中でも無気力が顔を出していたに違いない。
無気力というよりも流されるような生活をしていたというべきだろうか。無気力ではあるがものぐさというわけでもなく、仕事や生活は普通にこなしていた。何もかもが嫌になったというわけではない。
髪の毛が完全に抜け落ちてからというもの、何を生きがいにしていたか分からない。抜け落ちる髪の毛を無造作に拾って眺めていたが、それほどの哀しさもなかった。
哀しさを感じないことが哀しかったとも言える。本来ならばもっと悲しむべきことなのに、なぜこれほど冷静でいられたのか、自分でも不思議だった。
「いやね。あんなにすっかり禿げちゃって、一気に老けたみたい」
そんな女子社員の声が聞こえてきそうである。また視線も必要以上に浴びているのを感じ、会社にいても視線だけでいづらいはずなのに、堪えることができたのは、それだけ神経が麻痺していたからだろう。元々は女性の視線が人一倍気になり、噂には敏感だった。だが、それも二十代までで、結婚してから一旦は女性の視線をあまり感じなくなった。それだけ一人の女性に決まるとまわりが気にならなくなったからで、結婚ということで、自覚があったからに違いない。
離婚してからの人生が後ろ向きであったことには違いない。それから仕事だけはそれまで同様こなしていたが、他に楽しみもなかった。月日だけが過ぎていき、そのまま歳を取ってしまった。
友達も減っていき、話をする人も減ってくると、休みの日に出かけることもなくなっていた。
だが、趣味として釣りをすることだけが残った。何も考えずに海を見ながら釣り糸を垂れている時間だけが、今も昔も変わりない。そう思っていたのだ。
漁場はその時々で変わった。そのために、釣りに行くときは旅行気分で、二泊三日くらいの予定を組んでいた。金曜日に仕事が終わってでかけ、日曜日にそこから出勤することもあった。あまり遠いと日曜日までに帰ってくるが、それでも充実していた。
海の匂いはあまり好きではないので、最初はあまり乗り気ではなかった。特に妻と別れてから何もやる気がなくなってからやめようかと思ったくらいである。だが、やめられなかったのは、釣り糸を見ている漠然とした時間を求めてやってくる自分がいたからだ。
その日も金曜日の夕方から出かけた。少し遠出をしてみたので、日曜日には帰る予定にしているが、それでもよかった。なるべく遠くに行ってみたい気がしていたからで、気分転換の何か起こりそうな予感もあった。
ハラハラドキドキとまではいかないが、久しぶりに感じた予感のようなものが、気持ちを昂ぶらせる。
女性と今さら出会ったとして、ドキドキするような感動が得られるだろうか?
不思議な感覚である。一度は女性との出会いを頭の中で否定した三浦氏だったが、旅行に出ると別である。いつも何かを期待しているのだが、ついてから釣り糸を垂れると、それまでの期待は消えてしまう。そんなパターンが続いた。
駅で聞く場内アナウンスも、ベルの音もいつもより大きく感じる。電車に乗るのは家に帰る方向と同じなのだが、いつも降りる駅で降りないというのも楽しいものだ。普段はあまり行かない路線に乗っていると、隣の駅でも、まったく違ったところに来たような気がしてくる。
次第に田舎に向う電車、途中の駅をところどころ停車せずに走る快速電車である。止まる駅にしても、ほとんど乗車する人もおらず、表を漠然と見ながら反対方向のホームを覗いたりしていた。
明かりも心なしか暗く、寂しさを醸し出している。ベンチの影も映っているようで、何とも言えないぼやけた雰囲気である。
向こうを向いているベンチに男が一人黄昏た雰囲気で座っている。背中を丸め、頭だけは正面を向いていて、どこを眺めているのかその先は暗闇である。まわりには民家もなく、広がっている暗闇。その駅は今までにも来たことがあるので、何となくまわりの雰囲気は分かっているが、夜にこれほど違った顔を持っているとは思ってもみなかった。
この駅では、どうやら特急の通過待ちのため、数分停車するようだった。きっとそうでもなければ隣のホームにいる男の存在にも気付かなかっただろう。
年齢は三浦氏とあまり変わらないくらいだろうか? 初老で髪の毛は白髪。思わず、
「ああ、私もあんな髪型ならいいんだが」
と思ったくらいだ。普段感じない髪の毛のことだが、やはり旅に出ると開放的になるのか、少しずつまわりのことや自分のことが気になるようだ。
男が見ている視線に目を移すが、そこには民家が点在している。かすかに明かりが漏れているのを感じていたが、男がその先を見つめているような気がして仕方がない。
三浦氏も同じように見つめている。それは釣り糸を垂れている時にかすかに遠くの方に見える漁船の明かりに似ている。そんなことを感じていると、ゴーゴーと大きな音が近づいてくるのを感じ、あっという間に後ろを通り過ぎるのが分かった。
どうやら特急電車の通過のようだ。通過の音を後ろで聞きながら目線は男を捉えて離さない。釘付けになっているのだ。
電車の通過があった後、さらに男が見つめている先が暗くなってくるのを感じていた。気のせいかも知れない。だが、男の横顔が暗い闇に包まれてくるように感じるのだ。これも気のせいだろうか?
ゆっくり見ている時間はなかった。特急電車が通過したということは、まもなくこちらの電車が発車するということだ。
しかし特急電車が通過してすぐであるが、向こうのホームに電車が到着した。三浦氏と男の間に電車が割り込んできたのだ。
作品名:短編集34(過去作品) 作家名:森本晃次