幻影少年
と思い、さらにぎこちなさに拍車が掛かった。もし、樋口が美麗の心に気付かなければ、美麗も、まったくの錯覚だとして意識すらしていないに違いない。それを下手にビックリしたために相手に悟らせてしまう。まるで、お互いに腹の探り合いをしているかのようだった。
「先生と生徒じゃなくなったら、先生は、私のことなんか忘れていると思っていましたよ」
「そんなことはないさ」
と言いながら、少し会話の合間に考え事をしているのが気になった。美麗にとって、その時に想像もつかないことを、樋口は考えていた。それこそ美麗にとっては、
「知らぬが仏」
なのかも知れない。
樋口には、実は今学校で気になる女の子がいたのだ。美麗が卒業するまでは、美麗のクラスの三年生を担任していたが、今年は、一年生の担任に変わった。三年生と一年生とでは、天と地ほどの差があることを、樋口は知っていた。一年生から見れば、三年生はまるで雲の上の人であり、話しかけるなど、とんでもない話に思えただろう。逆に三年生からみれば一年生は、まだまだ子供。だが、それも自分たちが歩んできた道であるだけに贔屓目に見てしまうのであろう、一年生から見上げたよりも、だいぶ親近感が感じられる距離である。
先生から見ると、どちらも、子供には変わりない。ただ、擦れているか擦れていないかの違いだなどと思っている人もいないとも限らない。そう思っていたのに、三年生の担任から、急に一年生に変わると、どうしてもギャップができてくる。
樋口の学校は、まず一年生を受け持ち、そのまま三年生までエスカレーター状態なのだ。三年生を無事に卒業させると、今度はまた一年生からである。樋口は、このサイクルが今度で三回目だということなので、だいぶ慣れているはずなのだが、
「これだけは、自分にしか分からないものだよ」
と、後から聞かされたが、それもその人にとっての真実なのかも知れない。
そんな中で、今年また一年生の受け持ちになった樋口は、心機一転で、新学期を迎えた。
美麗の短大の入学式は、高校の入学式よりも、だいぶ遅くにあった。美麗の通う短大だけが他の学校よりも遅く始まる。理由はハッキリとは知らないが、そんな学校があってもいいのではないかと、楽天的に考えていた。
樋口は、入学式で受け持ちの生徒を写真であらかじめ見ていた。その時から、少し気になっていた娘だったのだが、入学式で現れたリアルな彼女を見ると、
「これが胸のときめきというのか?」
と、まさか教え子で、しかも新入生、さらに、一目惚れというのも、今までの樋口の性格から考えると、ありえないことだった。
「生徒を好きになってはいけない」
と、いつも自分に言い聞かせていた。
だが、先生という職業を悔いたことはなかった。実際に人にものを教えることが好きだし、生徒の成長を見守るのも楽しい。だが、それも相手を生徒だとして、完全に割り切ることができた上でのことであった。
まさか教え子の中に、自分を好きになってくれた人がいて、卒業後を狙ってやってくるという見事な演出をプロデュースして、やってくるなんて、反則だと思うくらいだった。
教え子がせっかく来てくれたのだから、別に新入生という危ない橋を渡る必要はない。ただでさえ卒業までの三年もあるのに、すでに一目惚れしてしまったメロメロな状態を、誰にも知られずにやり過ごせるかが、今の樋口の最大の悩みだったのかも知れない。
樋口は、美麗のことを、美麗が在学中に何とも思ってはいなかった。目立つわけでもない死、特別に困らせられたという記憶もない。しいていえば、
――目立たない娘――
という記憶があっただけだ。
そんな美麗が訊ねてきてくれて、しかも、大胆にも自分に身体を任せようとしている。これほど嬉しいことはない。悩みのあった自分に対しての天の助けでもあるからだ。
樋口の心の中の葛藤が、一気に晴れてきた。
美麗が身体を委ねようと言うのなら、樋口もそれに答えるしかない。身体が勝手に動くのは、それだけ、美麗の動きが自然だったからなのだろう。美麗に対しての気持ちは、次第に大きくなってきた。
それにしても、昨日まで、正直に言えば、忘れていたような教え子が現れて、自分のことを好きだと言ってくれた。それに間違いはない。まるで夢ではないかと思うような展開に、思わず頬をつねってみたくなる樋口だった。
美麗が在学中に、樋口は他の女の子を意識していたということはなかった。それなのに、なぜ、今になって、しかも一目惚れなどしてしまったのか。
それだけ、三年生ばかりを見ていた目で、一年生を見ると新鮮に見えるのか、それとも、彼女が醸し出すオーラがそれほど大きなものなのかのどちらかであろう。
もし、後者だとすれば、オーラを感じるのは、他の人も皆彼女のオーラに参ってしまっているのか、それとも、樋口だけが感じることなのか、分からない。もし樋口だけが感じているのだとすれば、それだけ、彼女と波長が合っているということだろう。そうなると、美麗が来てくれなければ、樋口にはさらなる苦悩が待ち受けていることになるに違いない。
樋口は、今は来てくれた美麗に対して、十分に答えることが、自分のためでもあると思った。しかも、もう美麗は教え子ではない。
「手を出しても、何ら問題があるわけではない」
父兄が出てきたとしても、これは普通の自由恋愛なのだ。誰に何を言われても、問題ないだろう。
それに、樋口のまわりにも、同じように、卒業生と付き合って、最後には結婚したという話もよく聞く。ただ、それは、二人が危ない橋を渡って、紆余曲折の中で、やっとゴールインしたパターンであろう。
さぞや、二人の愛情は固い絆で結ばれているのだろうと思っていたが、話を聞いてみると、そうでもない場合も多いようだ。
なぜなら、結婚までにエネルギーを使い果たしてしまって、いざ結婚生活に入ると、味気無さが残ってしまうというのだ。
「どうして、あれほど気持ちが盛り上がったのだろう?」
二人が同じことを思っていれば、それだけ、冷めるのも早いもので、しかも、一度過激な恋愛を味わってしまえば、また危ない橋を渡るような恋愛でなければ我慢できないような恋愛感情を持ってしまうのだ。
樋口にはそこまで考えられないが、相手が過熱しているのであれば、自分が冷却剤になればいいというくらいに思っていた。
美麗の行動は確かに思いきったことをしているようだが、それも、計算づくではないかと思っている。
在学中に来るわけではなく、卒業してから来てくれたのは、先生と生徒という枠を超えた時点で来てくれたのだ。
中には、先生と生徒という枠の中だからこそ、恋愛ができると思っている女の子もいるかも知れない。美麗はそんなことを考えていない分、過熱が激しいわけではない。
要するに熱しやすく、冷めやすい性格ではないということであろう。
熱しやすく冷めやすい性格であれば、樋口は願い下げだった。最初は自分も相手のペースに乗ってしまったとしても、結局置き去りにされてしまうのは、自分である。そんなことになってしまっては、まるでピエロにされてしまっただけで、後悔が残るというだけのものではないかも知れない。