幻影少年
樋口だからなのかも知れないが、ここまで来れば、男の人の理性は飛んでしまうものなのだろうか。下手に男性をからかったりすると、ひどい目に遭うかも知れないという思いも抱いてしまった美麗だった。
樋口は、美麗を抱きしめた瞬間から、
「これが俺の気持ちの始まりなんだ」
と、漠然と感じた。これから、気持ちもそうなのだが、環境がどう変わっていくか分からないが、今、この瞬間が始まりであることに違いはない。
抱きしめられた美麗は、男性経験が一度もなかった。そのことを美麗は、先生にいずれは知られることになるのだろうが、なるべくそれを先延ばしにしたいと思っているのだった。なぜなら、恥かしい気持ち半分と、時間を掛けて、先生から自分の身体を開いてもらうことを望んでいたからだった。
だが、一旦火のついた男の感情に、失ってしまった理性を取り戻させることは簡単なことではない。
抱きしめるその手に力が入る。
「痛い」
美麗は、思わず声に出したが、
「すまない」
樋口は荒い呼吸の中から、低い声でそう言った。普段の樋口からは感じたことのない声に、美麗は、
「これが男性の感情なんだわ」
と、感じたものだ。荒々しい男性を基本的に受け付けないのが自分だと思っていた美麗だったが、樋口だけが特別なのか、それとも、火のついた男性は、皆こんな感じなのか分からないでいた。
ただ、火のついた男性が豹変してしまうことは分かっているので、それが男性が怖い一番の理由であることも、美麗には分かっている。
「美麗って呼んでもいいかい?」
再会してから、少ししか時間が経っていないはずなのに、何時間も経った気がしていた。計画を立てた張本人である美麗がそれだけ時間に関して感覚を失っているのだから、突然の出来事に遭遇した樋口ももっと大きな驚きを抱いているかも知れない。
「いいですよ。美麗って呼んでください」
そう言った時、樋口に力強く抱きしめられた。
その時、美麗は、自分に酔っているのを感じた。完全に恋愛のヒロインを自分が演じている。相手の男性を虜にし、そして、自分を好きになってくれる相手が、自分の好きな人であることに満足していたのだ。
「痛い」
また、さっきと同じ言葉を呟いた。
さすがに樋口も悪いと思ったのか、急に力が緩むのを感じた。すると、今度は美麗がビックリし、
「お願い。もっと抱きしめて」
と言った美麗にビックリし、緩めている力をどうしていいか分からなくなっていた。
「女性の気持ちは分からないな」
と、樋口は思ったかも知れない。
だが、美麗にとって、初めて知ることになるであろう男性に、細かい注文を付けるのは仕方がないことなのかも知れないと思った。
ただ、美麗がまだ男性を知らないことを樋口は分かっているだろうか?
男性は好きになった女性が処女であることに喜びを感じるものなのか、それとも、面倒くさいと感じるものなのか、分からない。もちろん、男性でも個人差があるだろうから一概には言えないが、ただ、処女であることを知られるのが恥かしいという思いがあることには変わりがなかった。
「美麗は、処女なのかい?」
いきなり聞かれて、美麗の身体が勝手に反応した。急にビクッとなったのである。その行動が無意識であることは樋口にも分かったであろう。それは言葉には出していないが、肯定の証拠である。
「余計なことを聞いてすまなかったね」
それを察したのか、樋口は慰めにも似た言葉を発した。
「いいえ、いいんです。確かに私は処女です。先生はそれでもかまいませんか?」
勇気を出して切り出してみたが、内心はドキドキだった。
一瞬の間があった。
「うん、大丈夫だよ。それで美麗に対する気持ちに変わりがあるわけでもない」
これは、やはり少し嫌がっているという表現にも聞こえた。本当に処女がありがたければ、もっと喜んでくれるものだと思っていたからである。
「ありがとうございます」
とは言ったものの、
「本当にありがたいかどうかは、あなた次第よ」
と言いたい気持ちが山々だった。
それを口にすることなどできるはずもない。それは、先に惚れたものの弱みでもあるからだ。
「先生は、今お付き合いしている人いないんですか?」
樋口が独身なのは知っていた。しかし、本当のプライバシーまでは分からない。ただ、美麗が今までリサーチした中では、そんな素振りは見えなかった。もっとも、一介の女子高生のリサーチなど、子供の探偵ごっこにすぎない。たまに先生の部屋を覗いてみて、誰か女性の出入りがあるかということや、先生の出かけるところを探るくらいしかできない。それも限界があるというものだ。
「いないよ。気にしてくれていたんだね?」
「それはそうですよ。先生のことを私はずっと気にしていたんですよ」
「それはいつ頃からなんだい?」
ハッキリと、いつだと言えなかった。徐々に好きになっていったのも事実で、気になり出してから好きになるまでにも少し時間が掛かったように思う。
「覚えていません」
ある程度は答えられると思ったが、質問の内容が意地悪に思えたので、返答も意地悪に答えてしまった。樋口がどう思うかは、本人にしか分からないことである。
「でも、卒業してから来たということは、先生と生徒という関係を避けたかったということだね?」
「だって、先生と生徒の関係って、あまりハッピーエンドにならないでしょう? そこまでのリスクを私だって負えないと思っているんだから、先生ならなおさらのことですよね?」
社会的立場も、まわりの人間関係を考えても、一人の教え子のために身を潰すというのは、愚の骨頂かも知れない。美麗も以前は、そんな教師がいれば、教師失格というだけではなく、男性としても人間としても、軽蔑に値すると思っていたのである。
「そうだね。燃え上がるのは簡単かも知れないけど、一旦燃え広がると、消すことは不可能になってしまうこともあるからね。確かに怖いことだと思うよ」
「私も先生という職業の人を聖職者なんて言葉で、言い表す人もいるけど、それって私から見れば職業に対しての差別じゃないかって思うんですよ。
「俺が言える立場じゃないが、その言葉に縛られて苦しんでいる人も結構いると思うよ。男なんだから、相手は生徒とは言え、女なんだからね。俺は今までにもそんな気持ちになったことがなかったわけではなかったが、何とか抑えることができたからね」
先生のセリフは真実であろう。元とは言え、生徒だった女性を相手に、しかも、愛情表現を示した相手に対して自分が、生徒に対し、邪な気持ちを抱いたことを冗談などで言うわけはない。本当であれば、隠しておきたいような話をするということは、それだけ自分のことを知ってほしいということに違いない。それは将来を見据えた長い目で見ているという解釈ができなくもない。相手に自分を知ってもらいたいと思うのは、好きな相手であることに相違ないからである。
樋口が、その時、戸惑いながら、どこかぎこちなかったことに、美麗は気付いていた。だが、樋口の部屋に入り、樋口に抱きついた瞬間に、忘れてしまった。
樋口は、そのことを分かっていた。何となく気付かれたと感じた時、
「この娘は、勘が鋭いな」