幻影少年
さすがに、人を死に陥れたことがあるなど、美麗に分かるはずがない。ただ、大きな池の周りに広がる広大な森が、彼の意識にどういう影響を与えているかまで分かっていない美麗には、自分が中途半端な立場にいることを分かっていながら、その気持ちに耐えるだけの強さを持たなければいけないことは分かっていた。
綾香と話をして、綾香が自分に足りない強さを兼ね備えているのを感じた。綾香を慕いたい気持ちになったのは、他の人たちとは少し違った意識があったが、その気持ちを整理することが、樋口に近づく最善の方法に思えたのだ。
樋口の中にもう一人誰か女性がいることは、すぐに分かった。元々孤独な樋口に人の気配があれば、すぐに分かることである。きっと美麗に限ったことではなく、他の人にも樋口の目が誰かに向いていることに気付いている人はいるに違いない。
その相手である利恵も、かつて辛いことがあり、今は復讐の手段に使われようとしている。しかも、彼女には意志の力が働いているわけではなく、弟少年の「いいなり」になっているという他人には到底理解できない立場を持った女性であった。
利恵とは、本当に感情の通っていない操り人形のような女性なのだろうか?
利恵のことを詳しく知っている人はあまりいない。ただでさえ存在を感じさせない女性である。
それはまるで暗黒の星のようだった。
昔天文学者が創造した星の中に、まったく光を発しない星というのがあった。
「星というのは、自らが光を発するか、あるいは反射させて光を発するものだが、まったく光を発しない星があるという。つまり、近くにいても分からない。そばにいてもぶつかるまでは分からないという恐ろしい星の存在だ。これは本当に恐ろしい。いつぶつかって、自分がこの世から消滅してしまうか分からないんだからね」
この話は、現実世界にも言えることである。そんな人がそばにいると考えただけで恐ろしい気持ちになるというものだ。
利恵のことを考えると、この星のことを思い出してしまう。この星の話をしてくれたのが兄少年だというのも皮肉なことだろうか。
兄少年がこの話をしてくれたのは、綾香が初めて抱かれた時だった。頭を下げてお願いしていたのに、抱いてしまうと、急に態度が大きくなった。
――女が抱かれた相手に対して皆が皆従順になると思ったら、大きな間違いよ――
とばかりに兄少年を何度睨み返したことか。そのたびに少年は余裕の笑顔を返してくる。それがまた悔しかったりするのだ。
兄少年は、弟が一人の女性を自分の言いなりにしているのを知っているのだろうか。知らないわけはないだろう。だが普段の様子から見て、そんな肉親を許せる性格ではないように思える。
そういえば、彼が言っていた言葉があった。
「人に従うことが幸せになることもあるんだよ。人から見れば拘束されていると思っても、それが本人の意志であれば、その人にとって決して不幸ではないということだね」
おかしなことを言う人だと思った。会話に何の脈絡もなく口から出た言葉だったが、必要以上のことは聞かなかった。それは綾香のことを言っているからだと思ったからだ。
だが、きっと利恵のことを言っていたのだろう。
「大人しいと思っていても、鎖でつないでいないと、まったく別人のようになって、感情をあらわにする人もいるからね」
とも言っていた。
綾香の近くにも、そんな人が確かにいた。普段は、冷静沈着で、冷静な判断力に敬意を表し、誰からもその人の考え方を否定されることはなかったのだが、ある時、急にタガが外れて、イライラを爆発させる人がいた。その時は完全に瞬間湯沸かし器である。
だが、利恵の爆発はイライラが高じて爆発するのではない。どこか計算高いところがあるに違いない。そうでなければ利恵のような落ち着いた女性が、一人の男性の言いなりになるはずはない、どこかに、彼女の中の打算が顔を出しているのだろう。
樋口が、利恵を見て一目惚れをしたと、弟少年は言っていた。一目惚れなどするはずのない人間だと樋口は思われているようだが、どうしてそんなことが分かるのか不思議だった。
綾香も一目惚れなどしないタイプだが、一目惚れをしない理由にはいくつかある。
「もっといい人が現れるんじゃないか?」
という思いがある人だ。貪欲というわけではなく、むしろその逆である。恋愛をあまりしたことのない人間にありうることだろう。
「贅沢を言ってると、逃げられるぞ」
と、言われてもピンと来ない。恋愛に慣れている人は、それだけ女性を見てきている。そして自分のこともそれまでの恋愛でよく分かってきているだろう。だからこそ、
「これ以上の人が僕の前に現れることなんかないんだ」
と思うのだ。
特に一目惚れをしたことのある人は、一目惚れという経験を実に貴重なものだという。
「いくら惚れっぽい人でも、一目見ただけで好きになるなんて、稀なケースだと思うよ。だから余計に舞い上がってしまって、自分の目が本当に正しかったのかどうか、疑いたくなるのさ」
一目惚れをした人は、まわりから見ているとすぐに分かる、どんなに隠そうとしても、舞い上がった気持ちがオーラとなって表に放出されるのだ、
樋口の場合も、見る人が見れば一目瞭然だった。だが、利恵も樋口を好きだというオーラがあり、相思相愛に見えた。それは利恵の計算ずくだったというのだろうか。
冷静な利恵は、作り上げられたものだとは思いたくない。
――人間が他の人間の性格を作り上げる――
それが恋愛感情であっても、怖い気がした。特に弟少年を見ていると、完全に服従させているという雰囲気にしか見えない。
――まさか、利恵には最初から性格の欠如が見られたのだろうか?
性格の欠如、そこには何らかの力が働いている。その力は、綾香にも樋口にも分からない世界であった。
二人の兄弟の出現は、綾香にとって、今まで抱えていたトラウマを解消するものだった。そして、美麗、利恵という二人の女性を解放するものなのかも知れない。
利恵に対しては、弟少年のいいなり状態であったが、これが利恵にとっての幸福なのかも知れないと思うようになっていた。
綾香は、兄少年と愛し合うことで、自分のトラウマが解消でき、美麗の気持ちの中にある樋口への気持ちを、一度リセットさせた。
「もし、美麗ちゃんが、もう一度樋口先生を好きになったりしたら、どうします?」
「それはそれでいいのさ。美麗に気付かせてあげられればそれでいいんだからね。でも、僕は二人の間には二度と恋愛感情など浮かんでこないような気がするんだよ。浮かんでくるとすれば、それは、この世界ではないということかも知れないね」
そう言いながら、少年は、綾香の手を取るようにして、樋口の通勤路に差し掛かった。樋口は必死に誰かを探しているようだった。
――美麗を探しているのだろうか?
と思っていたが、そうではない。いつもの交差点で、ウロウロしている樋口に、美麗が通りかかった。
交差点で二人はすれ違ったが、美麗だけが一瞬後ろを振り返ろうとしたが、すぐにやめた。樋口は、まったく美麗の姿が目に入っていない。