幻影少年
「私も、あなたたちの考えていることを全面的に賛成できるわけではないけど、あなたたちの気持ちを一番分かっていると思ってほしいの。美麗、利恵と二人の女の子を巻き込んでしまったのは事実なので、私もあなたたちの考え方を少しでも分かるようにして、最善の方法を考えるようにするわ」
「僕たちは、決して特殊な能力を持っていると思っているわけではないんですよ。ただ、他の人と少しだけ考え方を変えるだけで、見えていなかったものが見えてきたり、見えると思うことが、天命に繋がると思っているんですよ」
少年の顔が真っ赤になっていた。
――この子の本当の顔は、これなのかも知れないわ――
と思っていると、
――以前に、どこかで会ったことがある顔だわ――
と思うようになっていた。だが、少年は覚えていないようだ。もし分かっていれば、口にしているからだ。
綾香は、少年と話していて、ずっと上を見上げていたように思っていたが、初めて、上から見つめているように思えた。形勢逆転ではないが、上から見つめることができたことは、よかったと思っている。
少年は、すでに綾香を慕っていた。その表情から綾香は、その向こうに見えている利恵の面影を感じることができるようになっていた。
利恵の過去に何があったのかということまでは分からないが、綾香の過去と似たところがあり、記憶を共有できる唯一の相手ではないかとまで思えるようになっていた。
――利恵は今、どうしているんだろう?
と、思うと、次第に不安な気持ちを拭い去ることができなくなっていた。
元々、利恵に対しては。不安を感じていた。どこか危なっかしくて、誰かが見ていないと、どうにかなってしまう性格を秘めていたからだ。
それをコントロールしているのが、目の前にいるこの少年。しっかりしているようだが、まだ頼りないところがある。綾香は、そこに不安を感じていた。
利恵は、もし少年に見放されたら、どうなるだろう?
考えるのも恐ろしいが、今感じている人の中で、一番脆いのが利恵であるのは間違いない。
「本当に、ちゃんと利恵ちゃんを見ていないといけないわよ」
自分でも表情がこわばっているのが分かった。
「はい」
少年は、それ以上の言葉は言わない。さっきまであれだけ饒舌だった人間が、ここまで変わるものであろうか。
「先生、本当にありがとう」
医務室での会話は、短いものだったが、感覚としては、数時間は一緒にいた気がした。それだけ、中身の濃い話だったのは間違いない。
綾香は、少年との話の中で、樋口と加藤は似た種類の人間なのかも知れないと思った。だが、その中でも樋口は、まだ救いようがあるように思えていた。美麗が死を口にしたのは、自分が死を意識したからではない。樋口の中に死というものを感じたからだ。それは、後悔の念をずっと持ち続け、死を意識してきたからだろう。美麗はその意識を感じた上で、樋口を好きになったようだ。美麗には、何か覚悟があるのかも知れない。それを少年たちも分かった上で、美麗を守りたいと思ったのだろう。
彼が、綾香を美麗に会せたのは、好きになった相手と別れさせようという意志があってのことだと思っていたが、そうではないようだ。美麗が死というものを悟っていることで、今まで好きだと思っていた感覚が、別のものに変わっていくことを分かったが、どうしても男である自分たちには分からないことがあるため、綾香に確認してもらいたいという気持ちがあったからだと思っている。
樋口が死を意識しているのは、本当に死にたいと思っているからではない。自分の人生に諦めを感じていて、最終的なものとしての死を感じているのだ。
人生の諦めが、すべてを投げやりにしてしまう。樋口は、自分の目の前で救えなかったものをいくつも感じていた。自分が悪いわけではないのに、理不尽なこともいっぱいあった。
樋口には、人の人生を見ることができる能力があるようだ。過去にあったトラウマなどが見えてくる。それが理不尽であれば、まるで自分のことのように抱え込んでしまって、世の中の理不尽さを、まるで自分のせいだとまで思えてくる「損な性格」であった。
教師になったくせに、人と関わるのが嫌なのだ。冷静でいることで、人から好かれないようにしようと思っていたのに、美麗が来てくれたことで、人生が変わって見えるようになった。
利恵のことを好きになったというのも、美麗が来てくれることを予期できたからなのかも知れない。それまで感じたことのない思いを抱くようになり、それまで見ているのに記憶になかったことが、ドッと押し寄せてきた気がした。
ただ、美麗が現れることは分かっていたはずなのに、実際に美麗が自分に対して示した態度を予知することができなかった。今まで手に取るように分かっていたことが分からないと、焦ってくるもので、利恵のことを意識し始めたとすれば、美麗を抱きしめた時だったのかも知れない。それだけ時系列の上でも、樋口の頭は混乱していたのだ。
樋口が喫茶店で見た絵も、以前にどこかで見ていて、絵の中に誰かを当て嵌めたことで、絵に対しての意識が残ったのかも知れない。樋口は、人の人生を見た中で、それを目の前に見えるものに当て嵌めてしまおうとするくせを持っていた。もし、目の前の光景に当て嵌められなければ、当て嵌められるまで意識の中に残っていて、ちょうどいい光景が見つかると、一気に意識を押し込め、そのまま記憶の中に封印していたようだ。
封印されたものを見ることをできる人など、どこにもいない。それは、樋口自身の意識の中に、封印していることすらないからだ。
人の人生を見てしまい、自分の中でトラウマとして残ってしまったことで、意識は消えてしまうと思っていた。だから、逆にトラウマを消すことなど、できるはずはないと思ったのだ。トラウマを消すには、一度記憶の中にあるものを、意識の中に戻してからゆっくりと瓦解していかないとダメだからである。要するに、記憶の元から断たないとダメなのである。
理屈は分かっているのだが、それが簡単にできるくらいなら、苦労はしない。いろいろ考えた中で気がついたのが、死への意識だった。
死というものが人生の最終結末だということであれば、分かってしまった人の人生の死について考えを及ぼさないといけないと考えた。その思いに共鳴したのが、美麗だったのだ。
美麗は、在学中から樋口のことを意識していたのだが、近づきがたい存在だった。理由は分からないが、近づくことに危険を感じた。美麗のような女の子は、危険を冒してまで、好きかどうか分からない相手に近づくことはしない。本当に好きになった相手でないと、気持ちを開かないというのが、美麗の気持ちだった。
樋口は、学生時代の美麗に意識がなかったわけではない。美麗の人生がまったく見えなかったからだ。
美麗のことをずっと思っていたわけではない。樋口が相手の人生を見れることに気付くのは一瞬だからである。一瞬見ただけで、その人の人生を見ることができると思うと、さらに相手を見つめようとする。
「見たくないものを見てしまった」