幻影少年
医務室で眠っていた少年が目を覚ました。
「僕は、綾香先生が慕っている人の弟なんです」
「彼に、私のことを聞いたの?」
「はい、僕たち兄弟は、いつも話をしなくても、感覚で分かるので、中途半端に感覚だけで分かるくらいなら、話をした方がすっきりしていいでしょう?」
確かにその通りだった。中途半端な想像は、とどまるところを知らず、暴走してしまう可能性があるからだ。
「でも、どうして行方不明になんかなったの?」
「樋口先生を困らせてやろうと思ったからさ。兄貴も加藤先生を困らせてやろうとして同じことをしたんだけど、加藤の性格が変わるわけもなく、それでも、少しは大人しくなったかも知れないね」
「そんなことをする意味があるというの?」
「ええ、樋口先生の場合は、少し危険なところがあるので、効果はあったんじゃないかな?」
「どういうこと?」
「樋口先生を好きになった女の子がいるんだけど、彼女は兄貴に相談したようなんだ。兄貴は、その後、綾香先生に相談にきただろう?」
「美麗ちゃんのこと?」
「そうだよ。彼女は樋口を好きになったと思い込んでいるみたいだけど、途中から違うと思ってきたようなんだ。でも樋口の性格からして、一度好きだと告白してきた女性を手放すわけがない。どんなことをしても繋ぎとめようとするだろうね。今はまだ、そこまで過激なことはないけど、で、僕は樋口に、他の女性を宛がおうと考えたのさ」
「というのは?」
「決して樋口に靡くことのない女性、そして、僕と兄貴の二人がかりであれば、必ず守りきれる女、そんな女性を、やつに仕向けたのさ」
「それは一体?」
「綾香先生も知ってるだろう? 利恵だよ」
何となく分かった気がしていたが、利恵という女性の神秘的な雰囲気に、決して心の奥を覗かせない雰囲気があったのは、この二人の少年が、いうだけのことはあると感じさせた。
「でも、どうしてそこまで樋口先生を憎むの?」
「憎むというか、僕の兄貴は、子供の頃から、美麗が好きだったんだ。美麗が樋口を好きになった理由はよく分からないけど、樋口には、人に言えない秘密があることに気付いたんだ。それが、学生時代に一人の女の子を蹂躙したことがあって、その女の子は、まだ小学生だったんだ。誰にも言えなくて、最後は自殺してしまったんだけど、ちょうどその頃から、美麗が死について語るようになったんだ。まだ、小学生だった美麗がいきなりだよ? そりゃあ、ビックリしたさ。兄貴の驚きは尋常じゃあなかったからね。樋口は、その少女が死んだことを知らなかった。ちょっとした悪戯心を起こしただけで、女の子が何も言わないことをいいことに、決して近づこうともしなかった。最初は怖がっていたかも知れない、女の子が告発しないかをね。でも、告発しないことで、すぐに忘れてしまった。そんなやつなのさ」
「そんなことがあったんだ。でも、美麗ちゃんがどうして、樋口先生を好きになったのか分からないわね」
「何となくは分かっているんだけど、あまり信憑性のある話ではないからね」
「でも、利恵ちゃんは大丈夫なの? 彼女に樋口先生の魔の手が伸びるということは?」
「それは大丈夫なんだけど、美麗の方は少し心配なんだ。どうやら、一度樋口のところを訪ねて、自分の気持ちを告白したようだ。ただ、その気持ちが本当の美麗のものではないと思うんだけど、樋口という男は、女性を愛する時、自分ではなくなるように思えるから、それが心配なんだ」
「どういうことなの?」
「自分を好きになってくれた女性が目の前に現れると、相手は、自分を好きになったんじゃなくて、自分の中にいるもう一人の自分を好きになったって思うみたいなんだ。だから、女性を愛する時は、本性の自分ではなく、もう一人の自分。つまり、女性から見れば、決して樋口が悪い人には見えない仕掛けになっているのさ。だから怖いんだ」
「本気にさせられるということ?」
「そういうことだね。美麗の場合も、本気になりかかっていたようだ。卒業してから樋口のところに行ったのも、意識の中で、自分を生徒としてではなく、一人の女性として見てほしいと言う意識と、それに、樋口が淫行になることで、自分を愛してくれないんじゃないかって思ったからなんだが、その意識は逆に、淫行になることで、樋口の異常性欲を掻きたてるのが怖かったという気持ちもあるはずさ。要するに、樋口に対しての気持ちには、必ず裏があるということなのかも知れないね」
「でも、やっぱり、利恵ちゃんが気になるわ」
「利恵は大丈夫さ。僕が利恵を愛している以上、危ないことはない。ただ、利恵の中には幼さの中に、妖艶な雰囲気を醸し出すことができる。それは、自分でコントロールができるのさ。もっとも、コントロールできるように仕込んだのは、この僕なんだけどね」
と言って、彼は怪しげな笑みを浮かべた。
彼の兄は、綾香を愛していると言ってくれた。しかし、美麗のことも気になっている。綾香の頭は混乱していた。そんな自分に、弟と名乗る彼は、容赦なく自分たちの話を続ける。
――私は利用されたのかしら?
と思ったが、次の瞬間、
――そんなことはないわ。利用されただけなら、こんな形で事情を説明されるわけはないし、しかも、事情を説明しているのは弟と名乗る男、どういうことなのだろう?
「そういえば、美麗ちゃんは、この間会った時、死について話をしていたんだけど、今から思うと、そっちも気になるわ」
「それはきっと樋口と一緒にいて、死についての意識を思い出すことがあったんだろうね。無意識とはいえ、自分のせいで一人の女の子が死んでいるんだから」
「女の子が死んだということと、あなたたち兄弟の関係は、どこかにあるの?」
「関係はないよ。美麗が好きになった相手を調べていると、樋口にぶち当たった。樋口の過去を調べていると、見つかったのが、女の子を殺したという事実」
「でも、よくあなたたちにそこまで分かったわね」
「それを教えてくれたのは加藤だったのさ。利恵が加藤から聞き出してくれた」
「利恵ちゃんをそんなことのために使ったの?」
「利恵は、僕のいうことなら、何でも聞くからね」
――狂ってる――
どこまでが真実で、どこからが虚空なのか分からなくなってきた。
「綾香先生が強くなってくれたのが嬉しい」
と、彼の兄は言ってくれたが、強くならなければ、きっとこんな話、まともには聞けなかっただろう。今もどこまでまともに聞けているか分からないが、少なくとも、理解しようとは思っている。
「利恵ちゃんの貧血というのは?」
「ああ、あれは生まれつきというよりも、育ってきた環境から貧血を起こしやすくなったみたいなんだ。でも、今はある程度なら、自分でコントロールできるようになっているみたいだよ」
「それでも、私にはまだ理解できないのが、どうしてあなたたちが、そこまで樋口先生を憎悪しているのかなのよ」
「加藤には以前、制裁を加えた。やつも同じように女の子を蹂躙した経験を持っているからね、だから今度は樋口なのさ」
「あなたたちは、正義のためにやっているというの?」
「そんな単純なものじゃないさ。でも、復讐というわけでもないかも知れないね」
「復讐も、正義の制裁も許されることじゃないわよ」