幻影少年
本当にこの子は一体何を考えているのだろう。確かに死について考えないこともなかったが、あまり人に話すことではないと思っていた。ひょっとすると、死にたいと思った時、誰かに話したいという衝動に駆られることはあるかも知れないが、本当に話すことはしないと思っていたからだ。
「あなたは、誰かと一緒に死にたいと思っているの?」
「死にたいという感情は置いておいて、自分の運命を自分で決めることができないのは、死ぬことも同じなんだなって、感じると、急に悲しくなったんですよ」
「あなたは、今好きな人と一緒にいれて、幸せなんだって、私は思っていたけど、そうじゃないのかしら?」
「いいえ、私は幸せですよ。でも、その確証がないんです。私は確証がほしいって思っているんですよ」
今まで大人しかった少女が、愛を手に入れたことによって、欲が出てきたということか。それとも、自分の運命について、考えられる心の余裕ができてきたのか、要するに、先に進んだことで、一つ一つの壁があることに気付いたということなのだろう。綾香にもそういう経験は、過去にあった気がしていた。
「私は死にたいという感情を抱いたわけではないんですよ。死ぬとしたら、どうやって死にたいと感じたかということなんですよ」
普通であれば、
「何言ってるの。そんなこと言わないでよ」
と言って、諌めるはずである。
「病気で、生きたいと思っても生きられない人だっているというのに」
と、まで言ってしまうと角が立つが、もし、美麗が真剣に死にたいと思っているのであれば、そこまで言ったかも知れない。
死について考えることは、誰にでもあることである。綾香も今までに何度か考えたものだ。仕事上、避けて通れないという意識もあるが、自分のこととして考えた時も、死というものを考えることが、むしろ、前向きなのではないかと思ったこともあった。
前向きというのは、死を怖がって、最初から目を逸らしてしまうと、他のこともおろそかになってしまいそうに感じたからだ。何も考えずに、
「死を考えることはいけないことなんだ」
と、勝手に思い込むのは、自分の人生から逃げているのと一緒だと思うからだった。
死と向かい合わせにあるのは、「生」であり、背中合わせにあるのも、「生」である。それを思うと、美麗の考えていることも分からなくはないが、美麗には、そんなことは考えてほしくないというのが、綾香の考えだった。
「死を考えるなとは言わないけれど、死の裏側にあるのが、生だということも忘れないでよね。死ぬよりも辛いことだってあるかも知れないんだし」
と、そこまで言うと、美麗の顔が、真っ青になっていた。死ぬよりも生きる方が辛いという言葉に反応したのだろうか。綾香も、
――言い過ぎた――
と、思ったが、この話題に対して、それ以上でもそれ以下でも、言葉は見つからなかったのだ。
話題を変えるしかないと思い、違う会話にしたが、美麗はすでに気持ちを切り替えていた。会話は普通の女子大生と変わらぬ笑顔で展開し、
「最初の「死」の話題って、何だったんだろう?」
と思わせるほどだった。綾香は完全に安心しきっていて、結局その日は、美麗が好きになった男性の話題に入ることはできなかった。
時間的に二時間ほど話をしていたのだが、あっという間だったように思った。何を話したのか、綾香は、あまり意識の中にはない。それは自分からの話題ではなく、美麗が出した話題がほとんどだったからだ。考えてみれば、完全に美麗のペースに嵌ってしまっていた。
綾香は、美麗と別れた後、駅まで歩いたが、来た時よりも帰りの方が、遠く感じられた。時間的には夕方で、西日が最後の力を地表に降り注いでいた。
足元から伸びた影は、足の疲れを誘発するようで、歩きながら、棒のようになった足を地につかせない、根が生えたかのようであった。
少し熱っぽさも感じた。背中に当たる夕日が、焼けるように熱い。来る時は日中でも爽やかさが残っていたはずなのに、夕方になるだけで、どうしてここまで変わってしまったのか、
「雨でも降るのかしら?」
綾香は、雨が降るのが分かる時がある。いつも絶えず分かるわけではないが、雨が降る前というのは、必ず頭痛に襲われる。梅雨時期のように毎日雨だと、却って辛さに慣れてしまっているのか、身体のだるさは感じるが、辛さにまで行きつくこともない。楽をしようと思うから、身体が拒否するのではないかと思っていたほど、梅雨の時期は、特別な感情があるのだった。
駅に着く頃には、額から汗が滲み、身体の奥から逃げられない熱さが、籠ってくるのが分かる。やっと電車に乗ったかと思うと、今度は乾ききらない汗が、冷房に冷え切ってしまい、寒気を伴うようになっていた。
「頭が、ボーっとするわ」
何かの錯覚でも起こしそうな感覚に、先ほどの美麗を思い出していた。
――死について話していたけど、あの子は一体――
あまり余計なことを考えると、頭痛がひどくなるのも忘れるほど、考え込んでしまったが、一定の時間を過ぎると、今度は、その反動からか、頭痛に耐えられないほどになっていた。
意識はいつの間にかなくなっていて、気が付けば、降りる駅の一つ手前の駅に停車していた。
「危ない危ない。もう少しで乗り過ごすところだった」
と、今度は意識をしっかり持っていたつもりだったが、なぜかまた眠ってしまった。
――いけない――
と思い飛び起きたが、まだ、降りる駅に着いていなかった。
――一体、どうしてこんなに時間が進むのが遅いのかしら?
この空間だけ、綾香を中心に時間が回っているのではないかと思わせるほどであった。
この瞬間のことがしばらく頭から離れなかった綾香だったが、次の日に、学校に行くと、教員室では大きな騒ぎになっていた。
一人の生徒が行方不明になったということで、親が捜索願いを出していたのだという。
その時間というのが、どうやら、綾香が昨日、電車に乗って自分の降りる駅に近づいていたあの意識が朦朧とした時間だったという。何か運命的なものを感じた。
行方不明になった生徒というのは、樋口が担任のクラスの男の子だという。
男の子は真面目な性格で、地味で、目立たない性格でもあった。後になって、すぐに見つかったのだというが、生徒の説明には、今一つ納得のいく答えは得られなかったという。
本人は、別に家出をしようとか、自殺を考えていたなどという危険なことではなく、自分が行方不明扱いになっていて、知らないところで騒ぎになっていたことに驚いていたようだ。
どうして家に連絡しなかったのかと聞かれると、自分がどこにいたのかすら分かっていない様子で、それ以前の問題だったようだ。まるで神隠しにでもあったかのように、その時、本人すら、どこにいたのか意識の中にはなかったのだ。
その少年は、数日後、やっとほとぼりが冷めたようで、学校に登校してきたが、精神的にも体力的にも、どこか辛いところがあるようで、三時間目が始まる頃には、体調を崩して、医務室に現れた。
「疲れているようなのでビタミン剤をあげるから、これを飲んで、ゆっくり休んでいなさい」
といつもの調子でいうと、