幻影少年
少年が、それ以上何も言わなかったのは、その時に話しても、ピンと来ないだろうという意図があったのかも知れない。ハッキリ理解できない相手に話したとしても、後から思い出して納得することもあれば、却って混乱をきたすこともある。この場合は、前もってあれ以上の話を聞いていたとしても、完全に混乱してしまって、それ以上、意識することはできなかったに違いない。
ただ、少年は確かに予言したのだ。
「今では分からないけど、近い将来、他の人から教えられて、繋がるのだ」
と言っていた。
相手は利恵で、そして近い将来が今ということか。そして利恵という女の子が、まるで自分の歩んできた人生を後から歩んでいるような気がしたのは気のせいであろうか。利恵についての過去もいろいろと聞いてみたが、決してまったく同じというわけでもない。経験という意味では利恵の方が多いかも知れないが、その分、浅いように思えた。ただ、そんな相手だからこそ、惹き合うものがあるのかも知れない。
相性という言葉だけでは言い表せないものがあると少年は言った。まるで綾香の心の中を見透かしたかのような言い方だった。
綾香が相性という言葉を口にしたのは、綾香自身も、相性という言葉だけで言い表せるのかどうか、疑問だったからだ。
だから、それを少年に正してみた。
少年がどのように答えようとも、綾香は少年を信じている。委ねられない分、慕っている上で、相手の言葉には全幅の信頼を置いている。全幅の信頼を置いているということは、すべての言葉に従うということでもある。
「まるで、主従関係に近いものがあるかも知れないね」
と、少年は言葉を選ばずに言ったように思えたが、
「先生は失礼なことを僕が言っていると思っている?」
「いいえ、あなたがいうんだから、間違いないわ」
「それこそが、僕に「従」している証拠さ。だから、僕はそんな先生だから、愛することができるのさ」
この時の少年が言った、
「愛することができる」
という言葉、気になった。
――ひょっとして、彼は私以外の他の女性を愛することができないと思っているのかしら?
と感じた。
彼の言い方はまさしくその通りで、確かに彼が他の女性を愛しているところなど、想像もできなかった。
そういえば、医療の勉強をしていく中で、男性の性癖についての話があった時、
「男性の中には、一人の女性しか愛することができないと思い込んでいる男性がいます。でも、それはトラウマに支配されているだけで、他の女性も愛することができますが、一人の女性しか愛せないと思っている時、愛される女性は、本当に幸せな気分になっています。そういう意味で、男性のトラウマを解消してあげることが、本当に最善なのかは、難しい判断ですね。医学的、心理学的な分野では、このようなことがいろいろあります。皆さんも、そのあたりをしっかり判断して、立派なお医者さんになってくださいね」
と、先生が言っていた。心理学という分野にまで発展した話は、聞いていて、なるほどと思った。ただ、まさか綾香は自分が、その当事者になるなどその時は思ってもみなかったのである。
利恵も信じることができる人が自分の近くにいればいいと思っていた。今まで、信じたいと思っていた人に裏切られたこともあり、たった一度だけの裏切りだったが、そのせい、人というものを信じられなくなった。
友達はもちろん、肉親も信じられない。むしろ、信じたいという思いが強かっただけに、肉親に対しては、恨みすら浮かぶほどだ。
人を信用することがどれほど感情の中で薄っぺらいものかを知ってしまった気がした。利恵は、見た目よりもずっとクールである。一度信じられないと思うと、徹底的に嫌悪してしまう。嫌悪していると、気が楽になるからだ。だから、まわりからは、何の感情もないように見えるのだが、それは、感情というものが欠落しているというよりも、
「楽になりたい」
という、本能がそうさせるのだ。
表情も豊かではない。嫌な感情が表に出ている時は、人にも分かるのだが、それ以外はほとんどが無表情だ。人に考えを見られたくないというよりも、本当に何も考えていない時の方が多い。
「あの子、一体何を考えているのかしらね」
と言われて、
「何も考えていないんじゃないの」
と答える人もいるが、ほとんどは、
――そんなことはないわね――
と思っているはずなのだが、利恵に関しては、本当に考えていないのだ。いくら、相手の気持ちを読み取ろうとしても、読み取れるはずはないのだ。
貧血を起こすのは、何も考えていない頭と、実際の気持ちにギャップがある時に起こすものなのかも知れない。
考えているつもりで、感情が頭の中を覗きに行くと、そこは空洞である。空洞が頭の中に真空状態を作り出しているというのであれば、貧血を起こすのも無理のないことだろう。利恵のそんな性質を分かっている人は、まずいないだろうが、一番近い感情を抱いているのは、綾香である。それでも、もしすべてを分かったとすれば、
「こんな想像を絶するようなこと、ありえないわ」
と感じるに違いない。
「そういえば」
貧血で思い出したのは、樋口のことだった。
ある日を境に、樋口は、貧血を起こすようになったと言っているが、それは今年の入学式が終わったあとからのことである。
「これまでに貧血らしいことは?」
「低血圧なので、たまにあったんですが、今は血圧も正常に戻っているんです。でも、ここ数か月、新入生を迎えたあたりから、特に貧血が激しくなってですね」
と話していたのは、この間、教員室で急に意識不明になったといって、急遽、医務室に運び込んだ日のことだった。
綾香も、樋口の顔色が、ここ最近悪いとは思っていたが、綾香の知らないところで、頻繁に貧血を起こしていたとは知らなかった。救急車を呼ぶほどのこともなく、ベンチで座っていれば、しばらくして正気に戻るということなので、本人もさほど気にはしていなかったが、
「でも、やっぱり、気持ちのいいものではないですね」
と言って苦笑いをしていたが、その表情はスッキリしたものだった。
その日美麗と何があったかなど、知る由もなかった綾香は、樋口の中にあるジレンマに気付きながら、追及して考える気にはならなかった。
もし、美麗と樋口の間に何があったか知っていれば、綾香は樋口をどんな目で見ただろう?
美麗は結局相手が誰なのか、話さなかった。綾香が知っている人物だということは、敢えて名前を口にしなかったことが、暗黙の了解でもあるかのように分かりやすいことだった。
綾香は、美麗と会ってみて、彼女の中に、自分がいるような気がして仕方がなかった。今気になっている女性二人。利恵と美麗、どちらが自分に近いかというと、利恵の方が近い気がした。しかし、美麗を見ていて放ってはおけない気がするのは、美麗の中に、綾香自身が見えたからだ。
――もし自分なら、美麗のような行動を取るかも知れないわ――