幻影少年
無数の線は、まるで毛細血管を見ているようだった。毛細血管は、視界の中心から、放射状に、まるで蜘蛛の巣が張っているかのように広がっていた。毛細血管を意識すると、目の前が真っ暗になり、激しい頭痛の襲われた。
「助けて」
声にならない悲鳴をあげるが、それに誰かが気付いたのか、駆け寄って来て。
「大丈夫ですか?」
と、声を掛けてくれる。
しかし、すでにその時は、意識は朦朧として、気を失う一歩手前、意識を戻すことなど不可能だ。気が付けば医務室で寝かされていたというのが、最初に綾香のいる医務室で目が覚めた時の意識だった。
それから何度か起きる貧血も、似たような感覚だった。誰もいないところで意識を失うことが多く、人がいない時の方が、却って意識が長く持てたのではないだろうか。
綾香は、利恵の話を聞いて、貧血を起こす時に感じる視線がいつも一人だというのが気になっていた。利恵を見ていて、男性を惹きつけるオーラがあると思っていたのに、いつも特定の人だからだ。
――利恵が感じるのは、特定の人の視線だけではないだろうか?
他の人の視線を感じることがないというのは、彼女が鈍感だというわけではなく、特定のインスピレーションがあってこその、視線を感じる意識だと思ったからである。
ただ、最近になって、利恵がおかしなことを言い出した。
「今感じている人の視線の後ろに、誰か違う視線を感じるんです」
利恵は、毎日視線を感じていたが、それが誰の視線かまでは分かっていなかった。そういう意味では、鈍感であった。
「他の人の視線を感じるというのは、延長線上ということ?」
「ええ、他の人の視線を別の角度から感じるというわけではないんですよ。何か不思議な感覚なんです」
最初は、どういうことか分からなかったが、よく考えてみると、もう一つの視線というのは、自分かも知れないと思った。
利恵に対して、誰かの視線があるのを感じていたが、どこからの視線か分からない。それで、利恵を見て、向いている先を探ろうとしていたことがあったので、その時の視線を感じたのかも知れないと思った。
――どうしよう? あれは自分だということを言うべきだろうか?
綾香は悩んだ。話をしてもいいのだが、自分が視線の元々の相手が誰なのか、ハッキリと分かっていないのに、話をしても、却って混乱させるだけではないだろうか。それを思うと、もう少し黙っている方がいいかも知れない。
しかし、後になればなるほど、言いにくくなる。ただ、それは綾香側の都合で、利恵がどのように思うかを考えると、今は時期尚早ではないかと思えてならなかった。
一つ、懸念があるのは、利恵が、同じ角度からの視線を感じると言ったことだ。同じ角度からであれば、綾香にも相手が誰なのか分かりそうなのだが、利恵の話をそのまま鵜呑みにすると、利恵が感じている視線は、綾香ではないということになる。すると、その視線は誰なのだろうか?
「利恵ちゃんが感じる、もう一つの視線というのは、貧血が起きる時と、同じ時なのかしら?」
利恵が感じている視線に、貧血が関係しているとすれば、ひょっとすると、勘違いという可能性もある。あくまで可能性であるが、
「ええ、確かに、貧血の時だと思います」
「だったら、貧血を起こす時の、錯覚なのかも知れないわ。最初の視線が貧血を引き起こして、起こってしまった貧血から、もう一つの視線という錯覚を引き起こす。そういうことだってあるんじゃないかしら?」
――だから、気にすることはないのよ――
と言いたかったのだが、言葉にできなかった。言葉にできるほど、信憑性や説得力のあるものではないからだ。
「そうなのかも知れませんね。あまり気にしすぎない方がいいのかしら?」
「そうよ、その通り」
利恵は、自分に言い聞かせるように言ったので、綾香も安心したように、その言葉をなるべく肯定するように、頷いていた。
綾香も、利恵くらいの頃、つまり高校に入学したての頃に、よく人の視線が気になっていた。
綾香の場合は、清楚な雰囲気を醸し出す中で、プロポーションが妖艶だったこともあり、そのアンバランスさが、男性の目を惹きつけていた。
「綾香先生は、男の視線をよく感じているはずだよ」
少年と、愛し合った時、綾香のことをそう言っていた。
「それも、ずっと以前からだと思うんだ」
――この子は、どうしてここまで私のことを分かるのかしら?
と思ったほどで、そう思えば思うほど、綾香は自分が少年に惹かれていくのを感じていた。
「綾香先生の魅力は、誰もが知っている。でも、その中にある本当の魅力は僕しか感じないのさ。ある意味、皆綾香先生の表に出ている魅力に騙されているのさ」
「あら、騙されているとは、失礼ね」
綾香は、笑いながら少年を見つめた。その視線は完全に慕う気持ちが籠っていて、それでいて、包み込むような笑顔だった。包み込むような笑顔こそが、綾香の真の笑顔であり、そのことを知っているのも、少年だけに違いない。
少年は、綾香を抱きしめた。綾香は急に呼吸が困難になるが、ぐっと堪えた。
少年は決して焦らない。焦ってしまえば、綾香を苦しめるだけだということを分かっている。
「あなたは、本当に女性の身体を熟知しているのね」
というと、
「そうじゃないさ。相手が綾香先生だから、何でも分かるのさ。きっと他の女性とでは、僕の方がバカにされるくらいじゃないかな? でも、僕はそれでいいのさ。他の女の子のことが少々くらい分かるくらいなら、綾香先生だけでいいから、すべて分かった方がいいに決まってるからね」
「そう言ってくれると嬉しいわ。これが相性というものなのかしらね?」
「相性? 確かにそうかも知れないね。でも、僕はそんな言葉では言い表せないものを持っていると思っているんだよ。きっとそのことを分かる時が来ると思うんだ」
「今じゃ分からないの?」
「綾香先生がそのことを知るのは、僕からの話だけではダメなんだ。他の人から聞かないと、きっと先生は納得しないと思うよ」
それはどういうことだろう? 少年は続けた。
「綾香先生は、僕を慕ってはくれているけど、委ねようとはしないでしょう? その違いについては、先生もおぼろげに分かっていると思うんだけど、でも、全幅の信頼があっても、全面的に任せているわけではない。その違いが、最後の最後、信じられないところが生まれるのさ。だから、僕の言葉だけでは、信憑性に欠けると思っているはずじゃないかって思うんだよ」
少年の言葉には、いちいち説得力がある。もちろん、誰であっても、すべてを信じることができないというのは、綾香の中でのポリシーであり、「真実」であった。そのことを、その時に思い知らされたのだ。
綾香もその時、複数の視線を同時に浴びていた。そのことを少年は分かっているのだ。
「綾香先生が感じている視線に、まったく想像もしていない視線がある。それと同じ気持ちでいる人も、案外先生の身近にいるものさ。今はまだその人は感じていないけど、そのうちに感じるようになるのさ」
その時の少年の言葉を思い出し、反芻しながら、綾香は、利恵と接していた。
――あの時の言葉は、ここに通じるんだわ――
と感じた。