幻影少年
と、思いながら、気持ちの中で燻っている感情が、ジレンマを思い出させるのだった。
綾香は、美麗の気持ちを少しずつ和らげるように話を聞いてみた。必要以上なことは聞かず、それでも、ストレートな聞き方は、相手にプレッシャーを与えるかも知れない。
もちろん、その時点で、美麗が好きな相手が樋口だと、綾香は知らなかった。だが、自分の知っている人である可能性はかなり高いと思っている。樋口と美麗を、想像の中で並べて比較しても、想像できるものではなかった。
その日の美麗は、ほとんど寡黙だった。綾香としても、寡黙な相手を問いただした時、、得られるものは何もないと思っていたので、しばらく世間話に花を咲かせた時間帯を持ったくらいだ。
「綾香先生は、学校でもいろいろな人から相談を受けたりしているんでしょうね」
「そうね、カウンセリングができるわけではないんだけど、話しやすいって言ってくれる女の子もいるわね。こんなにズバズバ言う先生なのに、どうしてなのかしらね」
と、言って綾香が笑うと、美麗も微笑みながら、
「それだけ、ズバズバ言ってくれる人が恋しいと思っている女の子が多いということじゃないんですか? いつも奥歯にものの挟まったような言い方しかしない、腫れ物にでも触るような扱い方をされたんでは、却って疲れますからね」
「そうかも知れないわね。私はこれでも一度、教師になりたいって思ったことがあったのよ、すぐに諦めたけどね。でも、その気持ちは今でも思い出すことがあるわ。きっと慕われたいと思っていたからなのかも知れないわね」
決して委ねられたいわけではないということを、遠まわしに言ったつもりだった。委ねるということは、それだけ、自分にもリスクがあるわけで、相手と一蓮托生、共倒れの覚悟も必要だということだ。
美麗から、相談を受けているのではないかと言われて、最初に頭に浮かんだのは、利恵だった。
利恵は、貧血気味でよく医務室に顔を出していることで、綾香先生とすぐに仲良くなった。
綾香は利恵のことを、
――この娘も、私と同じような考えを持っている娘だわ。まるで妹みたいな気がする――
と思ったのはまんざらでもない。
綾香は、一人っ子で育った。家庭環境に恵まれていたわけではなく、どちらかというと不幸を背負っているかのような人生に、半分嫌気が差していた。姉か妹がいればよかったと思っている。男兄弟はいらなかった。
男兄弟がいらないと思ったのは、物心ついた頃からだった。その頃から、男というものに対して、人種の違いのようなものを感じていたのだろう。男に近づくのが怖かった時期、気持ち悪いと思った時期、近づいただけで、気絶してしまった時期と、子供の頃は、本当に悲惨だった。
原因については、本人が決して口にしようとはしなかった。
「私、分からない」
と、医者の前でもシラを切り、徹底的に誰にも理由は悟られないようにしようと思っていた。それなのに、男の中には、
「俺がついていてあげよう」
などと、
「人の気も知らないで、何を言うか」
と思わせる男性も少なくなかった。
中学に入った頃から、少しずつ気持ち悪さが抜けていき、男性恐怖症が治ったのではないかとさえ思えるほどになったが、やはりそんなに甘いものではない。義理の父親との確執が、綾香にとどめを刺した。
もし、少年が自分の前に現れなければ、どうなっただろう? 綾香は彼を男として見ていなかった。恐怖症に陥ることのない唯一の男性だった。彼のことを名前で呼んだこともない。本当の名前も知っているのだろうが、意識したことがない。呼ぶ時も、
「あなた」
と呼ぶが、それは結婚相手に対して呼ぶイメージと似ていた。ある種の感覚が、
「一心同体」
に近いものがあるのだろう。綾香は彼に対して、必要以上に男性を感じない。
「そうか、必要以上に感じるから苦しいんだ」
と、今さらなことを感じさせてくれたのも、彼の存在があったからだ。
彼は、綾香に「強さ」を求めた。それは、綾香の自爆を解き放ちたいという気持ちからだ。自分の力だけではどうにもならない。綾香自身が強くならなければいけない。そのことを、彼は最初に感じたのだ。
そのおかげで、綾香は彼に男性を感じながら、辛さはなかった。綾香にとって彼は、救いの神でもあったのだ。
彼が、美麗のことを気に掛けているのは、なぜか心配にはならない。彼が自分以外の女性を意識するとは思えないからだ。
綾香は、男性を見ることができないと思っていたが、学生時代から、見ようとしなくても、男性のことが分かるようになってきた。何とも皮肉なことである。
利恵も綾香に対して、
――姉のような気がする――
という意識を抱いていた。
綾香が、妹のように思っているよりも、その気持ちは強いかも知れない。
利恵は、ずっと自分が一人っ子だったことに、疑問を持っていた。利恵の中には、姉がいて、夢の中によく登場していたのだ。
子供の頃から、時々危ないと思ったことがあっても、気が付けば回避されていたことが何度かあった。
「奇跡のようだけど、誰かの見えない力が働いているみたいね」
と、言われたこともあったくらいで、確かに利恵にとって、そんな力が働いていたと思ったことがあったのだ。
もちろん、偶然が重なっただけだろうが、利恵には、時々霊感のようなものが働く時がある。偶然は、その霊感によってもたらされたものなのかも知れない。それでも、利恵には偶然で片づけられないものがあったのだ。
綾香は、利恵に霊感があることを知っていた。本人から聞いたわけではないが、話を聞いていて、
――この子は霊感の強さを感じる――
と、思わせることが、たびたびあったのだ。
また、利恵には、男性を惹きつける何かがあるという意識もあり、自分が望んでいない男性を惹きつけてしまうこともありそうに思えた。
綾香には、利恵のことは手に取るように分かった。自分のことよりも分かっているのかも知れない。妹のように思えてくるという意識も、分かりすぎるくらいの意識があってのことだった。
そんな利恵は綾香を慕ってくれている。委ねることがないのは、利恵も綾香の性格を分かっているからだろう。
「お互いにお互いを分かり合っている」
それが二人の間にある、共有した意識だったのだ。
綾香のいる医務室に、最初に利恵がやってきたのは、最初に貧血を起こした時だったのだが、貧血の原因が、樋口の視線だった。
樋口の視線を一番最初に感じたのは、入学式の日だったが、その時は、何も身体に変調はなかった。入学式から一週間ほど経ったある日、急に貧血を起こしたのだ。
それまで、毎日自分が樋口の視線に晒されていることは意識していたが、気持ち悪いという意識までもなかった。実際に貧血で倒れた日も、樋口の視線を気持ち悪いとまでは感じていなかったのだ。
それなのに、どうして急に倒れたのだろう?
貧血は呼吸困難を引き起こす。過呼吸に近いものがあるのだが、その時に、何かの異臭を感じるのだった。アンモニアのような鼻を突く臭いであり、頭の芯に響くものだった。どこから意識を失ったのか分からないが、目の前に無数の線が入り、そこから意識が薄れていった。