幻影少年
同伴という言葉を口にして、思わず苦笑したが、美麗がその言葉の意味を知っているかどうか、微妙だった。美麗は相変わらずの表情で、考え込んでいたが、
――なるほど、彼らしいわ――
少年は、こんな時まで、最高の演出を考えているのかも知れない。まず最初に二人だけにしておいて、後から現れるタイミングを見計らっているのだろう。見えるところにいるか、あるいは、時間で適当に入ってくるつもりなのかも知れない。
美麗は次第に落ち着きを取り戻してきた。
「来ないものをいくら待っても来ないんだわ」
と、思っていることだろう。綾香は、美麗は自分の考えと違って、彼はここに現れないんじゃないかと思っていると感じていた。
――それにしても、一体何から話せばいいのだろう?
この思いは二人とも同じだった。だが、やはり年の功というべきか、経験から言っても、最初に口を開くのは綾香の方であることが自然であろう。
「島田さんは、好きな人がいるって聞いたんだけど、その人に告白はしたの?」
「ええ、一晩一緒にいました。でも、最後の一線は超えていません」
急に口調が力強くなり、そこまで言うと、呼吸が整わなくなったようで、お冷の入ったコップを口元に持っていくと、半分くらい喉を鳴らしながら飲んでいた。その様子を見ながら、ゆっくり待っている綾香は、美麗がまだ、大人になりきっていないことを感じていた。
綾香の言葉は、完全に言い訳にしか聞こえなかったが、綾香に対して何を言い訳しているというのだろう。言葉に出すことが彼女にとっての言い訳にしかならないのであれば、必要以上なことは言わなければいいのにと思う。だが、美麗は言わずにはいられないのだろう。
一つは、会話にならないと、苦しいのは自分だと分かっているからだ。会話にするためには、自分の中に燻っているものを吐きだす必要がある。そのためには、恥かしがっていたり、
「軽蔑されたらどうしよう」
などという思いを抱いたままでは、どうしようもない。まずは、自分の中で扉を開いて、相手にある程度、手の内を見せるくらいの気持ちに余裕がないと、話にならないと思っているのだった。
もう一つは、美麗の性格が、話をする上で、重要で、隠しておけないようなことは、最初に言ってしまわなければ気が済まないという考えがあるからである。
「好きなものと嫌いなものと並んでいる時、どっちを最初に食べますか?」
と聞かれた時とニュアンスは似ている。
最後まで好きなものを残しておくタイプなのか、それとも、なくなる前に最初に食べてしまうタイプなのかで違ってくる。綾香は、好きなものを先に食べるタイプだが、美麗の場合は違うようだ。
美麗のように、好きなものを後に取っておくタイプで、先に自分のことを言ってしまわないと我慢できないという人は、ある意味したたかなのではないかと思っている。計算づくで何事も考えてしまう人に多い気がする。
それは、相手にまず先入観を持たせようと考えることだ。自分を曝け出すことで相手も安心する。しかし、焦ってまで相手に訴えようとする人は、どこか芝居がかっている人もいる。相手に分かってほしいだけなら、そこまで力強く宣言することではないだろう。そこに相手に対して先入観を植え付けようとする意志があるのであれば、大げさな方が効果的であることに違いがないからだ。
綾香は、美麗の言葉を聞いて、今は、本当に自分がその人のことを好きだという感覚に間違いないようだと思った。ひょっとすると、少年の思い過ごしではないかとも思ったくらいだ。
だが、綾香にも経験があったが、思い過ごしに気付くには、何かのきっかけが必要だ。一番効果的なのは、好きになった相手本人から、気付かせる何かを引き出すことだが、それはなかなか難しい。しかし、性格がまったく一緒というわけでもない。ましてや、同じ性格だからうまくいくと言うわけでもない中で、お互いに信じあえている間が、一番幸せであろう。
だが、それもいつ崩れるか分からない。崩れることを前提で付き合う人などいるはずもなく、綾香は美麗の心を静かに見つめることから始めるしかないと思うのだった。
美麗の心は綾香の中で、まるで万華鏡のように見えていた。綺麗に見えている部分は、すべてが筒の中、少年から植え付けられた先入観が、綾香の発想を狭めてしまう。仕方のないことではあるが、綾香自身、人から先入観を植え付けられたと意識させられるほど、少年の言葉は巧みで、演技力は抜群だったのだろう。
「一晩一緒にいて、どうでした?」
「ええ、一緒にいるだけで幸せな気分になれるんだって、再認識しました。ただ、抱き付いているだけで、彼のぬくもりも感じられたし、私は満足でした」
頬を赤らめ、美麗は恥じらいの中にいた。
綾香はその言葉を聞いて、その通りだと思った。感心したと言ってもいいだろう。自分にも経験がある。少年との一晩は、確かにそうだった。だが、決定的な違いがある。綾香は、最初からその時が最後だと思って臨んだ一晩だったことだ。覚悟と、最後には後悔もあった。後悔というのは、一晩限定だということを承諾したことだ。
「あれはウソ、あなたとずっと一緒にいたいわ」
などと、殊勝なことが言えればどれほど気が楽だろう。綾香にとっての後悔は、人が考えないようなことが多かった。
綾香は、美麗の顔を見ていて、その時の自分よりは、殊勝であると思った。もっとも、自分の時のように最初から、最初で最後だという覚悟の上で身体を重ねることは、ほとんど稀にしかないことだろう。
「その人は、島田さんを愛してるって言ってくれたの?」
「ええ、最初は少し戸惑っていたようなんですけど、私の目を見ようとしなかったからですね。でも、途中から私の目を見て、ちゃんと愛してくれたので、私も彼に委ねることができたんです」
思ったよりも落ち着いていたようだ。落ち着いていたというよりも、冷静さの中で、自分をしっかりと見つめることができたということだろう。綾香は、そんな美麗の、「委ねる」という言葉を反芻してみた。
「委ねる」という言葉と、「慕う」という言葉があるが、綾香は「慕う」という言葉の方を使っていた。委ねてしまうと、完全に任せてしまう形になるが、慕うのであれば、全幅の信頼で、決定するのは、自分になるからだ。相手に任せてしまうだけの信頼を相手に持つことが、綾香にはどうしてもできなかった。
美麗も同じなのだと思うのだが、口から出てきた委ねるという言葉には、身体だけに限定されたものがあったのかも知れない。それであっても綾香には、
「精神と身体は同じレベル」
という思いがあることから、身体であっても、すべてを任せることができないでいた。
処女を失った時も同じである。
綾香は失ったという意識ではなく、与えたと思っている。少し表現はおかしいのかも知れないが、綾香にとって一番似合っている表現だった。
美麗が委ねる気持ちになったのは、相手から、愛しているという言葉を聞いたからだろう。綾香の場合は逆に、愛しているという言葉を聞くと、気持ちの一部が冷めてしまうように思えた。
「本当はこんなに疑り深い性格は嫌なんだけど」