幻影少年
彼は約束通り、綾香の前から姿を消した。そして、姿を消されてしまって、本当の自分の気持ちを悟った綾香は、初めて泣いて泣き明かしたのだ。それを思うと、もう一度自分の前に現れて、今度は助けを乞おうとしている少年に対して、自分がどう対応していいのか、迷ってしまった綾香だった。
「精一杯、何とかしてあげたい」
と思ったが、何をどうしていいのか、とりあえず、冷静になって、彼が自分を頼ってくれた意味を探ってみたのだ。
少年は、綾香を強くなったと言ってくれた。それまで、いろいろな挫折を味わった綾香は、本当の強さをそこで身に着けたわけではない。復讐を企てたり、逃げ出したりは、決して強くなったわけではないのだろう。本当の強さは、挫折の中から生まれるのではなく、本当の自分を発見することができた時、初めて、生まれるのかも知れない。
本当の自分、それは、愛とは何かを知った時だったと綾香は思う。そういう意味で、少年との出会いは、綾香を強くしたという意味でも、大きな存在なのは、間違いのないことだ。
「信じるものは自分だけ」
確かにその通りだ。そして、その自分が信じた相手、それも本物だということを知った。
綾香は、知ることの大切さを、少年に教えてもらった。逃げてばかりではいけないということに繋がるのだ。
頑なな自分の気持ちは、氷解していき、次第に、何が大切かを悟るようになる。今自分のまわりにいる人、皆大切なのだと思うようにもなっていた。
少年は、まず綾香に、自分と美麗の話をし始めた。
自分は、昔から美麗のことを知っていて、怪しい男の人につけられているのを助けたこともあったと言っていたが、それは自慢しているというよりも、助けたことを後悔しているかのように見えたところが、綾香には気になるところだった。
美麗とは幼馴染で、自分は、いつも美麗に助けられていたと言っている。そんな自分が美麗を助けたことがあれば、本当なら、自慢の一つもしたいのだろうに、なぜに後悔しているような表情になるのか、理解に苦しんだ。
ただ、美麗が大人の人をも魅了する力があることを知ってしまったことは、いつも助けられていた少年には、少なからずのショックだったことは間違いないだろう。
「先生と美麗を比較するわけではないんだけど、僕は、先生のような魅力を美麗に感じていたんじゃないかって思うんです。美麗には幸せになってもらいたいとは思うんだけど、その相手は僕じゃないって思うんですよ、でも、今好きになった相手に対して抱いている気持ちがどこまで本当なのか、きっと本人にも分からないことが分かるのが、僕じゃないかって思うんですよ」
少年も、綾香も、美麗が好きになった相手が、樋口であることを知らない。綾香はもちろん、樋口のことは知っているが、まさか美麗の好きになった相手が、樋口だとは夢にも思っていないようだ。
少年は、樋口のことを知らないわけではない。綾香が通っていた学校の先生だということは知っているが、それ以上は分からない。最初、美麗が好きになった相手が樋口ではないかとも思ったが、好きになったのなら、すぐにでも行動を起こすだろうと思ったことで、卒業するまで感情を表に出さなかった美麗の好きな人が、樋口であるわけはないと思ったのだ。
「僕は、美麗のことを好きだと思ったことは何度もあります。そのたびに打ち消してきたんだけど、好きになったその時の感情は、その前に好きになった時の気持ちとは違うものなんですよ。それで、僕は本当に美麗のことが好きなのか分からなくなってしまって、結構、これでも悩んだんですよ」
この子は、本当に純情な子なのだ。最初は、何を考えているか、掴みどころのないことに不安がある、怖さを感じたと言ってもいいだろう。だが、綾香のことを好きになって、忘れるために、一度抱かせてほしいと言った言葉にウソはなかったはずだ。それは身体を重ねた綾香だからこそ分かることだった。
正直。綾香は今、美麗に対して嫉妬している。
「この子をこれ以上、誘惑しないで」
と、心の中で訴えていた。
そして、自分が少年を好きになってしまったことを、綾香に宣言したいと思うようになっていた。そのためにも、美麗に会って、彼女の迷いを解かなければならないと思った。
しかし、それは逆もありうることだった。
美麗の中にある迷いを断ち切ることによって、彼女の目が少年に向かないとも限らない。敵を一人作ってしまうことに、自らが加担してしまうということは、まるで、自分で自分の首を絞めるかのようではないか。
美麗にとって、誰が好きなのかをハッキリさせたい気持ちはあるのだろう。少年に対して、本当に好きな気持ちがあったとすれば、自分に正直になれない気持ちに迷いが生じているのかも知れない。
そんな美麗に対して、綾香はどうすればいいのだろう? 好きになった相手の切望に答えないわけにはいかないが、それが自分の首を絞める結果になりかねないと分かっている以上、どうすればいいのかなど、分かるはずもない。言い知れぬジレンマに陥ってしまった綾香は、
「先生は本当に強くなった」
と言ってくれた少年の顔が浮かんできた。
綾香は、美麗の気持ちがぐらついている思いが分かる気がした。今美麗が好きになっていると思っている相手が、どんな人か分からないが、少年への気持ちも断ちきれない。美麗は美麗なりにジレンマに陥っているのだろう。そして、それを解決したいと思い、行動に移している。それが美麗の性格なのかも知れない。
美麗は、待ち合わせ場所に最初から来て待っていてくれた。綾香も美麗のことが覚えていた。名前と顔が一致しなかったが、少年の話を聞くうちに、大体のイメージが湧いてくると、卒業生の中にいた女の子を想像し、卒業アルバムまで見てみて、何人かにイメージを絞ったが、その中の一人だったことで、改めて会った瞬間に、美麗の学生時代のことが次第に思い出されてきたのだ。
「綾香先生、お久しぶりです」
にこやかに笑った美麗は、完全に大人になっていた。学生時代のイメージをそのままの残し、わずかな間にここまで女にしてしまうとは、ひょっとすると、オンナになるための「儀式」を済ませたのではないかと思うのだった。
美麗の方は、綾香を見て、
――相変わらず、ステキな女性だわ――
と、なるべく表に出さないようにしていたが、女としてのプライドを掻きたてられた気がした。
美麗は、学生時代から競争心を煽るようなことはなかった。どちらかというと、
「自分は自分。人は人」
という考えを持っていて、必要以上に敵対心を持たないようにしていた。
敵対心がジレンマを生むことを知っていたからで、その思いは、綾香も同じだった。きっと、少し話をしただけで、ジレンマに関してはお互いに共有できる感覚だということを感じるに違いなかった。
「島田美麗さんね。彼から聞いているわ。そういえば、あなた一人?」
すると、美麗は訝しい表情になり、
「えっ、綾香先生と一緒に来るものだと思っていたんですが」
と、美麗は少し不安気な表情になった。
「私は、あなたと同伴で来るのかと思っていたわ」