幻影少年
「ええ、あなたのおかげかも知れないわね。そういう意味ではあなたには、お礼を言わなければいけないと思っていたの」
「そう言ってくれると嬉しいよ。僕は先生に強くなってもらいたいんだ。先生に強くなってもらって、助けてもらいたいんだ」
「助ける? 誰を?」
「僕じゃないんだ。島田美麗という女性のことなんだけど」
「島田美麗? 聞いたことがあるわ。確か、この間卒業して行った生徒の中に、そんな名前の女の子がいたのを覚えているわ」
少年の口から出てきた美麗の名前。そして、微かではあるが記憶が残っていた綾香の意識。美麗が一体どうしてここで出てくる名前なのか、よく分からない綾香は、少年の言葉を聞いて理解するしかないと思った。
綾香は続けた。
「でも、卒業生に対して、どうして私が?」
「先生じゃないとできないことがあると思っているんだよ」
「その前にあなたと、その島田さんとの関係はどういうことになってるの?」
「僕は卒業して、先生を忘れるために、いろいろな女性と付き合ったんだけど、美麗に対しても、付き合ってみようと思ったんだが、彼女は決して僕を受け入れようとしてくれないんだ。でも、彼女の中で苦しみが感じられるのは事実で、何とかしてあげたいと思うようになった。先生のことを忘れるために他の女性と付き合った自分に対しての戒めに、彼女は、僕に対して壁を作っているようにさえ思えたんだ。でも、それは違っていて、美麗を好きになるには、強くならなければいけないって思うようになったんだ。でも、それは自分が強くなることが、彼女の抱えている悩みに対応できないことを気付かせたんだね」
「彼女の悩みって、何なのかしらね?」
「ハッキリは分からないけど、彼女は今、本当に好きでもない人を強引に好きになろうとしているって思うんだ。彼女を見ていると、本人には気付かない思いが、僕に訴えかけるんだ。自分の本当の気持ちを知りたいとね」
「それで、あなたにはどうすることもできず、私を頼りたいと思ったのね。そして私は、あなたの見立てに合格したということになるのね?」
「ええ、そうですね。先生がそばにいてくれることが、力になると思うんです。先生の感情は、まわりから見て力強さを感じさせます。今までは、力強さを内に籠めようとばかりしていたんですね」
何となく話は分かったが、どうにも漠然としている。
「あなたの気持ちはよく分かったわ。でも、私も自分で確認してみないと、何とも言えないわね。あまりにも漠然としたお話だし、何よりもあなたの目から見た、一方的な感情でしかないからね」
「それは、もちろん、その通りです。だから、先生にも確認してもらいたいと思っています。今度、美麗に一度会ってほしいと思っているんですけど、いいですか?」
もちろん、それが大前提、会うことなくして、この話は先に進まない。
綾香にも、学生時代に気になる先生がいた。好きになって、思い切って告白までした。そのまま先生に処女を与えるつもりだったのに、先生は二股を掛けていたのだ。
付き合い始めて、三か月もした頃、
「ごめん。もう別れよう」
いきなりの話に青天の霹靂だった。
「えっ、どうしてなの? 私が何か悪いことした?」
「いや、君のせいじゃないんだ。悪いのは僕なんだ」
「どういうことなんですか?」
「いや、実は強引にまわりから見合いをさせられて、結婚させられることになったんだ」
そういえば、綾香が納得するとでも思ったのか、あまりにも幼稚な言い訳にしか聞こえなかった。
今まで尊敬していた先生が、ここまで相手を甘く見ている。こんな幼稚な言い訳で、相手を納得させようなんて、バカにするにもほどがある。
さすがに言われた時は感情的になって、ここまでの発想はできなかったが、話も分かってくると、冷めてくるのもあっという間だった。
――こんなに簡単に、愛情が冷めてくるなんて――
と思うほど、あっという間だった。
ここまでくれば、もう相手に対しての愛情などありえない。気持ちの中に容赦はなくなり、学校で、先生のあることないこと、思い切り噂を立ててやった。
最初は底辺に噂の種を撒いてやればそれでよかった。実に簡単なことだった。噂好きな連中があとは勝手に、たんぽぽの綿毛を、空中に散布してくれる。
先生は、すぐに学校にいられなくなり、いつの間にかいなくなった。
「本当は、結婚の知らせを皆にもたらして、祝いの言葉をもらいたかったはずなのに、いい気味だわ」
先生のことだから、人の言葉も鵜呑みにしただろう。
「結婚、おめでとうございます。お幸せに」
などという言葉、他人から言わせれば、他人の幸せなどどうでもいいことなのだ。それを真に受けて、
「いやぁ、ありがとう。嬉しいですよ」
などと、有頂天になっているのを見ると、これほど馬鹿げたことはない。そういう人に限って、人を裏切るのも平気なのだろう。
だからこそ、あんなくだらない言い訳をしたりして、本当にバカみたい。
「まわりが、強引に?」
それって、自分が優柔不断で、決め切らないから、まわりが決めているだけのことで、自分が情けない人間ですって宣伝しているだけではないか。そんなことを分かっていて、それでも、綾香に別れを切り出したのか、もう少し言いようもあったはずだ。
復讐されることをまったく考えていなかったのだろう。純情な女を騙すとどうなるか。思い知ったはずだ。
だが、綾香も最初はスッキリした気持ちだったが、しばらくすると、やってしまったことに対しての良心の呵責に苛まれるようになった。
良心の呵責は、綾香の精神を少しずつ蝕むようになり、性格が暗くなってしまった。まわりとのかかわりを一切遮断するようになり、精神的に鬱状態に陥った。それが治ってくると、次第に、冷静さだけが意識として残ったのを感じたのである。
綾香に、義理の父との確執があったのは、その後のことだった。復讐してしまった自分に対してのバツのようなものではないかと思ったが、世の中、そんなにうまくつながっているものなのかと思うと、綾香は意外と自分をそれほど不幸な女ではないと思うようになっていた。
「要するに気持ちの問題なのよね」
ここまで冷めた考え方ができるようになったのは、喜ばしいことなのか分からないが、綾香には、
「信じるものがあるとすれば、それは自分だけ」
という思いが、確信として残ったのだった。
孤独とは思わない。これが自分の発見した真実。そう思うと、人を好きになるのも、違った意味で楽しみであった。
そういう意味で、この少年が初恋だったと言えるのかも知れない。
少年には、今まで知り合った人にはない、何かがあった。パッと見たところでは、ただの暗い少年に見えるが、彼は二重人格であった。冷めた部分と、甘えたい部分が同居している。しかも、両極端なその性格を、巧みに操るすべを知っている。もっとも、それを発揮する相手は、自分の気に入った人。それ以外の人の前では、気配すら消して見せることができるのではないか。
少し買い被りすぎかも知れないが、綾香には、それくらいに感じていた。それくらいの男性でないと、特に年下ということもあって、恋をしたり、自分の処女を与えたりはしなかっただろう。