幻影少年
しかも、どこまで出てくるのだと言わんばかりに、床は洪水のようになっている。
――私は、夢でも見ているのだろうか?
と思うほどの光景に、綾香は気持ちがどうかしてしまったのだろう。
結局、彼の気持ちを受け入れることになったのだ。
――私が、こんなことになるなんて――
綾香は彼に抱かれて、
――この一度だけ――
と、思ったのに綾香の中で、彼への気持ちが募ってくるのを感じた。
――離れたくない――
という思いが綾香の中で蓄積し、彼にしがみついて、
「離さないで」
と、今度は自分が、哀願している。それなのに……。
彼は最初の言葉通り、一度だけで本当によかったのだ。綾香は、
――その気にさせられて、どうすればいいの?
言われて昇った梯子を、下から外されて、下りれなくなってしまったような感覚になってしまった。
綾香は、何とか立ち直ったが、またしても男性に対してのトラウマが残ってしまった。
――もう、この子とは、二度と会うこともないんだわ――
彼が卒業して行った日、綾香は一人で泣いた。泣いて涙が枯れ果てたと同時に、彼を忘れることができたのだった。
次の日の綾香は、普段の自分に戻っていた。ここまで普通に戻れるというのも、自分では信じられない気分だった。
綾香が先生として、その学校にいたのは、それから一月ほどだった。
――やっぱり、彼とはもう会うこともないわね――
住み慣れた土地から離れることよりも、その思いの方が先に現れた。新しい学校に行って、そこから先の生活を思うと、複雑な気がした。新しい学校でも、似たような雰囲気の生徒はいたが、彼のような人はいなかった。
――初恋だったんだわ――
彼に処女を与えたことを、本当によかったと思い、初恋だったことを今さらに知るというのも、
「人のことは分かっても、自分のこととなると、まだまだだわ」
と思い知らされた。
ただ、彼が綾香の前に現れるとすれば、偶然ではなく、必然なことに違いないと思っていた。彼が現れたのは、ちょうど、美麗が樋口の部屋を初めて訪れた、まさにその日だったのだ。もちろん、綾香も樋口もそんなことをまったく知る由もなかったのだ。
綾香の前に現れた少年。彼が待っていたのは、駅前の交差点だった。
そこは、十字路ではなく、一本細い路地に通じているような、不規則な交差点だった。
「綾香先生、お久しぶりです」
綾香は、そう言われて相手が誰だか、すぐに分かったが、気付かないふりをしていた。少し上目遣いに、
「あなたは私の前に姿を見せないと言った。それなのに、どうして今さら?」
と言いたげで、唇を真一文字に結び、見方によっては、怒っているように見え、また違う角度からは、見たくないものを見てしまったような軽蔑の目にも見えただろう。少なくとも、相手を見る目に、暖かさはなかった。
少年は、学生時代とは比べ物にならないくらい、大人になっていた。綾香の表情を見ても、まったくひるむところなどない。綾香もその表情に負けまいと、必死に睨みつけている様子なのだが、負けまいという意識に対しての意志は、さほど強固なものではなかったようだ。
表情が最初に緩んだのは、綾香だった。それを見て、少年もやっと顔を崩したが、その表情は、まだまだ子供で、懐かしさがこみ上げてきた。
――最初から素直になればよかったんだわ――
と、思ったのだが、やはり、自分も大人になったことを、相手にも分かってほしいという気持ちもあって、すぐには折れない姿勢を見せたのだ。
大人げないのは、綾香の方で、少年は、いつもの様子だった。子供だと思っていた学生時代も、他の人には、大人の風格を漂わせていた。ただ、綾香にだけは、甘えてくる。綾香だけが癒してくれる唯一の相手だったのだ。
「綾香先生に会いたくなってね」
笑みを浮かべていたが、いかにも苦笑だった。
「抱かせてあげたら、忘れてくれるんじゃないの?」
そう言いながら、くすぐったさを感じた綾香だったが、こちらも苦笑しているのが分かり、さらに苦笑してしまう。くすぐったさが、身体を震わせるのだ。
「そんなこと言ったっけ? 綾香先生の聞き違いじゃないの?」
と言って、今度は苦笑していない。綾香に対しての挑戦に似た笑顔だった。綾香は、自分がまるで手玉に取られているようで、癪に障ったが、
――ここで大人げない態度を見せると、彼の思うツボだわ――
と、何が思うツボなのか分からないまま、再会を苦笑で彩った会話が続いた。
「僕も綾香先生を忘れようと、真面目に考えたんだよ」
「でも、忘れられなかったの?」
「先生もそうでしょう? 初めての相手って、完全に忘れてしまわないと、忘れられるものではないんだよ」
「えっ、君も初めてだったの?」
綾香は、痒いところに手が届くような愛し方をしてくれた少年の指使いを思い出して、顔が真っ赤になった。
「そうだよ。ん? 今先生、僕とのあの日のことを思い出したね?」
そう言って意地悪をいうので、またしても苦笑するしかなかったが、今度の苦笑は、自分から望んでした苦笑だった。それにしても、彼が初めてだとは意外だった。完全にリードされていたので、彼の誘導に従っていただけだが、スムーズに、そして静かに進行する「儀式」は、綾香に強さを与えてくれた気がした。
今、医務室の先生として生徒を見ているが、生徒が慕ってやってくる。悩みを相談されて、的確なアドバイスを送っているつもりだが、綾香に的確なアドバイスを送ることができるようにしてくれたのは、少年の堂々とした態度だった。綾香に、強さを与えてくれたのだ。
綾香は、少年と再会することを正直望んでいた。学校が変わって、少年も卒業していった。綾香は心機一転のつもりでいたのだが、心の中で忘れられない思いが燻っていることは決して嫌な気分ではなかった。
忘れられない人がいるというのは、思い出としては最高である。
人間、誰にでも一人や二人、そんな人がいるものだと、綾香は思った。そんな相手にいつ出会えるのかというのも、運命と言えるだろう。
綾香の心機一転は、思い出を一つ作ることで出来上がったものだと思っている。だが、思い出がどこかで寂しさを同時に育んでいることに、それまで気付かないでいた。
思い出の中の少年は、いつも堂々としていた。そして、そんな彼にしがみついている綾香、今までならそんな自分を客観的にであっても、想像するなど、できるはずはなかった。想像すれば、自分の弱さを露呈することになると思っていて、弱さが自分にとって一番のネックになることを恐れていたのだ。
弱さを意識しているということは、いろいろなところに弊害をもたらす。普段ならできるであろうことができなくなり、咄嗟の判断をしなければいけない時に、判断力を鈍らせる。
綾香は、弱さを隠そうとすることが、自分を強くできないことにずっと気付かないでいた。やっと気付いたのは、少年との一夜を過ごしたその日だった。
自分を説得するような言葉があったわけではない、言葉など、最初から存在しなかったのだ。
「綾香先生、強くなったんだね?」