幻影少年
と、謝っていた。本当はそこまでしなければいけないわけではないが、そこまでしておくと、今後の利恵のためになるとも思ったし、相手もそれ以上、利恵に対して、言わなくなると思ったのだ。これも、先生の「ケジメ」の一つなのだろう。
綾香は、利恵の話を聞きながら、自分の女子高生時代を思い出していた。
本当は思い出したくない記憶だったのだが、綾香の父親に対する憎悪が、その思い出したくない記憶だった。
綾香の母親は、父親と離婚していて、今の父親は、義理の父だった。綾香が小学生の頃にやってきた父は、豪快な男性で、無骨で下品だった。似ているとすれば、加藤に似ているのだが、加藤とは明らかに違って見えた。
それも、綾香が大人になって見るからであって、本当は、子供の目線からであれば、似たような感じだったかも知れない。
しかも、義理とはいえ、相手は父親、他人ではなかった。特に母親から、
「お父さんとは、仲良くしてよね」
と言われていた。
母親に対しても、綾香はいい思いをしていなかった。離婚したどちらの親についていくのか子供の側から選べるのであれば、綾香は、父親について行ったであろう。
本当の父親は、大人しい性格の人だった。雰囲気は、樋口に似ていたかも知れない。樋口が前に立つと、綾香は何も言えなくなる。利恵が告白したことが、そういう意味で綾香を驚かせ、少なくとも自分の口から、樋口の悪口は絶対に言えなかった。
――私は公平に見ることはできないわ――
と思いながらも、言葉では樋口を擁護していた。相談してくれたのは嬉しいが、本当は自分以外の他の男性にしてほしかったというのが、綾香の本心であった。
ただ、綾香は、義理の父を恨んでいた。
あれは、中学二年生の頃だっただろうか。父親が、酒に酔って帰ってきた。
近寄らないようにしようとしていると、そんな綾香の行動に気付いたのか、
「おい、こっちに来て、酌をしろ」
と、命令口調が飛び込んできた。普段なら、シカトして部屋の中に籠るのだが、その日は目が座っていて恐ろしい。なるべく逃げ腰にしていたが、今にも飛びかかってきそうな義理の父に恐怖を感じ、急いで家を飛び出した。
どこをどう通ったのか分からないが、家に帰りついた時は、母親と一緒に帰ってきた。
母親は何も聞かなかったし、綾香も何も言わない。父親だけが、酒を煽って、そのまま眠ってしまっていたのだ。
義理の父親は、それから少しして家から出て行った。母は何も言わなかったが、どうやら他に女ができたようだった。離婚の成立まで大変だったようだが、子供の綾香には分からない世界だった。その時から、何もされなかったとはいえ、父親の視線の恐ろしさがトラウマとなって、男性を好きになるのが怖くなっていたのだった。
大学で知り合った男性と初めて恋愛をしたが、その時は、綾香のトラウマは、なぜか消えていた。その男性と別れが来るなど思いもしなかったが、別れる時は、アッサリとしたものだった。
綾香は、自分が考えているのと、まったく違った男性経験を歩むことになった。付き合い始めても、結末はまったく違った形で出来上がる。綾香は、ビックリさせられるだけだった。
学校の先生を目指したかったのだが、途中で断念したのは、相手が生身の人間だということ、医務員も同じであるが、先生という職業とは全然違う。カウンセリングの知識も多少はあるが、実際に免許を持っているわけではない。それだけに綾香は、自分が教師に対して抱いている思いは尊敬であり、その思いを裏切らないでほしいという気持ちが強かったのだ。
綾香は、自分のそんな育った環境を、利恵の中に見たのだ。利恵の母親も自分の母親と同じスナック務めだったとは思いもしなかったが、放ってはおけないという思いと、
「本当に自分でいいのだろうか?」
という思いが交錯していた。
同じような環境で育った人間なら、気持ちは分かるかも知れないが、公平な目で、見ることができるかと思うと、自分でも疑問に思うのだった。
「綾香先生は、どこか私に似たところがあるように思うんですよ」
と言われて、また愕然としてしまった。
――このセリフ、私が以前に言った言葉だったわ――
その時は、相手が学校の先生でもなく、学校関係者ではなかった。近所に住んでいる大学生のお姉さんだったが、その人に相談すれば、すべてがうまくいくと言う気持ちだったのだ。
だが、その時のお姉さんは、冷たかった。
「あなたの気持ちは分かるけど、私はあなたじゃないのよ。人に相談するのは悪いことではないと思うけど、頼ってしまってはいけないわ。今のあなたのセリフは、完全に私に頼りたいという気持ちが出ていたものね。相談してくれるのは嬉しいけど、あなたのご期待に沿えるとは思わないわ」
と、言われた。
そこまで言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。お姉さんはどういうつもりでこの言葉を言ったのか、ハッキリとは分からなかったけれど、綾香は、依頼心を捨てるつもりで、少しだけお姉さんに話をした。それは相手に偏見を抱かせないようにしようという気持ちを表に出したものだった。
「あなたの気持ちはよく分かったわ。でも、大丈夫、あなたなら、ゆっくりとした気持ちを持っていれば、時間が解決してくれる。私は時間が解決してくれるという言葉、本当は好きじゃないんだけど、あなたになら使えそうな気がするの。なぜなら、あなたには、その意味が分かると思っているから」
そう言って、お姉さんは笑ってくれた。
言葉では言い表せないが、お姉さんいの言う通りだった。確かに時間が解決してくれた。それはまるで鬱状態を抜ける時のように、自然な時間経過の中で、それでも、抜ける瞬間が分かるのだ。前兆も分かっているので、時間が解決してくれたという意識は、捨てられない。
綾香は、その時のことを思い出しながら、目の前にいる綾香を見つめていた。
綾香は、利恵を他人のように思えなくなっていた。このことが、利恵と、綾香、さらには、まわりを巻き込むことになるとは、まだその時に感じてはいなかったのだ。
綾香は、利恵の話を思い出しながら、三年前に前の学校で、卒業していった男の子のことを思い出していた。
綾香が前の学校の最後の年だったのだが、その少年は、綾香に告白してきたのだ。
綾香は、高校生の男の子に興味を持つような女ではなかったので、今までにも告白してきた男の子はすべて断ってきたが、その少年だけは、なぜか断れなかった。
「先生のこと好きなんだけど、一回だけでいいんだ。一回だけ抱かせてくれたら俺、先生のことを諦めるから」
「あなた、何を言ってるの? 自分が言ってる意味が分かっているの?」
ただやりたいだけの告白には、さすがにウンザリだった。だが、綾香が気持ち悪がっているのに、その少年は訴えながら泣いていたのだ。
少々豪快な連中であれば、涙を見せるなどありえないと思うのだろうが、この少年に限っては、彼らよりも、さらに涙を見せるところが信じられない。
「涙が似合わない」
という、取ってつけたような言葉では言い表せない。
――彼が、泣くというのは、目から血を流すようなものだ――
というくらいに、信じられない光景だった。