幻影少年
樋口は、記憶の中で、美麗と思しき女の子が男につけられていたというのが残っているが、最近になって、それが錯覚だったのではないかと思うようになっていた。
しかも、それが美麗を抱いたあの日からである。
美麗は、あの時の男を樋口ではないかと思うようになり、樋口は目撃したことが、錯覚だったと思うようになったというのは、二人が愛し合ったことで、記憶の中にあるものが、お互いに通じ合う中で、交錯していったのかも知れない。もちろん、お互いに相手がどのように考えているのか分からないが、意識が、それぞれの感情を司っているのだとすれば、そのうちにお互いに分かってくることではないだろうか。
樋口は、美麗を追いかけていた男を加藤だと思っていた。美麗もなぜか、追いかけてきた相手を加藤だと思った。お互いに似た人間を想像したのだが、それが偶然加藤だったということだろうか。
美麗と樋口にとって、加藤という男の存在は、まったく違った角度から見るはずなので、違って見えて当然のはずなのに、それが同じに見えるのは、まるで同じ角度で見ることができたかのようなイメージであり、それが実現できるのは、交差点での意識ではないかと、美麗は思った。
樋口には交差点の意識まではなかったが、美麗が時々自分と同じ高さで見ていることがあるのではないかということに、徐々に気付いていくのだった。美麗は、あれから何度か樋口の部屋を訪れて、いろいろな話をしたりしていた。もちろん、愛し合い、今ではお互いに最後の一線も超えている。その中で、いろいろ目からウロコが落ちるような発見もしていたのだ。
美麗は樋口しか見えていない。美麗が今まで生きて来て、今こそ一番自分に対して素直になっているのだと確信している。自分に対して素直だと思っていた時期であっても、それは表に対していい子でありたいという気持ちが心の中に存在していて、邪魔していたのだろう。
樋口も美麗だけを見ていればいいのだろうが、利恵を意識してしまったことで、抜けられなくなった自分の意志の弱さを感じ、美麗と一緒にいる中で、少しでも、利恵を忘れるようになればいいという他力本願的な弱さを持っていた。
弱さというのは相手にも伝わるもので、美麗も、
「何かおかしい」
と思いながらも、惚れた者の弱さからか、樋口に対して、余計な詮索をしないようにしていた。それこそが自分に正直になった自分を好きになれる一番の近道だと感じたからである。
こんな関係がいつまで続くのか、お互いに薄氷を踏む思いであったが、
「少しでも長く続けられるようにするしかない」
というところで、二人の気持ちが一致していたのは、皮肉なものだ。しかし、そんな思いでも共通した思いがあると、なかなか壊れないもので、お互いに気持ちがゆっくりと絆が強くなってくるのを感じた。
焦りがなければ、結構うまくいくものだ。お互いに薄氷を踏む思いが、お互いに強く結びつこうとする気持ちを抑えている。強く結びつこうとする気持ちは、どうかすれば、焦りに繋がるものである。二人の関係は、ある意味、理想的な関係に近いのかも知れなかった。
利恵は、樋口のことをどう思っているのだろう。そのことを知っているのは、綾香先生だった。当の本人である利恵は、結構早いうちから、樋口の視線に気付いていた。男性の視線に対して聡いのは、母親からの遺伝ではないかと、利恵は思っていた。
利恵は、この性格が一番嫌だった。
母親は、元々スナックなどをいくつも変わって、生活をしていた。父親は自営業なので、スナックに立ち寄ることも多かった。町内の寄合などで、スナックに行くことも多かったが、景気のいい頃に通い詰めたスナックで母親と知り合い、結婚したのだが、父親の押しの強さに負けたのが、一番の理由だった。
父親の豪快な部分まで遺伝していたら大変だったが、気が強いところは、ひょっとすると父親譲りかも知れないと思った。
「綾香先生は、樋口先生のことをどう感じてますか?」
「それはどういうことなの?」
最初に説明せずに、いきなり聞いたので、さすがの綾香もビックリしていたようだ。
「私、樋口先生の視線に、男性の目を感じるんです」
「樋口先生は、どちらかというと、ストイックな感じがするんだけど、男性の目を感じたというのは、やっぱり本人じゃないと分からないところがあるのかも知れないわね」
「嫌な視線ではないんですが、やっぱり、先生と生徒ということもありますし、相談できる人もいないので、綾香先生に聞いてみたんですよ」
「私も、今までに、同じような相談を結構受けてきたんだけど、相手が樋口先生というのは初めてだわ。樋口先生は、ケジメを付ける人だって思っていたので、少し意外だったけど、でも、少し安心した気もするわ」
「どうしてですか?」
「樋口先生も、普通の男性だっていうことよ。あまり気にしなくてもいいと思うのよ。樋口先生に限って、変なことはしないと思うから」
と、綾香がいうと、少し俯き加減で、
「そうじゃなくて、私も樋口先生、いい先生だって思うんですよ。それに……」
恥かしがっている態度を見せる利恵に対して、綾香は、
「あなたも、悪い気はしていないわけね。でも、先生と生徒の間ということもあるので、気になっているのね?」
「それもあります」
綾香は、さらに下を向くと、
「実は、私の母親は、以前スナックに勤めていて、客だった父親が強引に口説き落として結婚したらしいんですけど、父がいうには、私はその時の母に似てきたっていうんですよ。私も、母のように、大人のオンナとしてのオーラのようなものを醸し出しているのだとすれば、少し複雑な心境なんです」
大人に近づいてきた思春期の女の子の心境としては、分からなくもない。特に綾香の場合も、大人の色香を醸し出していると言われ続けただけに、利恵の気持ちは痛いほど分かるのだった。
「利恵ちゃんは、自分の中に流れている血と、今まで育ってきた環境を、ずっと気にしてきたのね」
「ええ、そうなんです」
憐みのような表情を見せる綾香に対して、利恵は分かってくれる人は、やはり綾香だと思っていたことに間違いがなかったことを、嬉しく思った。綾香も、実は似たような思いをずっと抱いていて、利恵を見た時、
――似たようなところがある女の子だわ――
と、感じていたのだ。
その思いはずっと変わらず抱いていて、少しずつ確証のようなものが得られる気がしていたのは、最近、よく医務室にやってくることが多くなったからだった。
仮病かと最初は思ったが、本当に貧血の気があるようで、貧血も、綾香が心配しているところから滲み出ているのではないかと思うと、放ってはおけないと思っていたのだ。
医務室で横になっている利恵を見ていると、時々、ずっと天井を眺めている。何か寂しさがこみ上げてくるものがあるのだろうと思っていると、そのうちに眠ってしまっている。寝ている時の表情は、実に安心感が溢れていて、利恵は、そのまま寝かせてあげることにした。時々次の授業に差し障りがあることもあったが、
「医務として、彼女を起こしてまで、授業に行かせるわけには行きませんでした。申し訳ありません」