幻影少年
最初はどこから感じるのか分からなかった。これだけゆっくりまわりが進んでいるのに気付かないというのも、おかしなもので、やっと気付いた時、相手は、立ち止まってこっちを見ていた。
相手に気付いた時、ゆっくり進んでいたはずのまわりが、普通のスピードに戻っていた。だが、喧騒とした雰囲気が戻ってくるわけではなく、相変わらず、耳に押し当てた貝殻状態だったのだ。
目の前にいる相手は、少年だった。まだ中学生くらいの男の子。どこかで見たような気がしたのだが、どこでだったか覚えていない。ニヤリと笑った少年は、そのまま踵を返してその場から立ち去った。あっという間の出来事に、さっきまでゆっくり進んでいたペースが覆された気分だった。
正直、不快な気分になった。誰だか分からない人にニヤリとされて、気持ち悪さしか残らない。それも、だいぶ以前に感じた不快な気持ちを思い起させる。まだ、子供だった頃のことだった。
美麗は、子供だった頃を思い出すことは、最近ではあまりなかった。
「思い出したくない」
という思いがいつでも頭の中にあり、その思いが、記憶を封印させてしまう。封印した記憶は、不快な気持ちを呼び起こすであろうことが分かっているからだ。
子供の頃に、後ろからつけられていた記憶はあった。
それが誰だったのか分からない。ただ、美麗は、それを中学生だと思っていた。その途中にいた男の存在は美麗の中に残っていないのだ。中学生だと思い込んでいたのは、美麗にとって、自分の中で記憶を納得させたい上での必死の抵抗のようなものだったのかも知れない。
誤った記憶であっても、美麗の中で、今交差点で見つめられたことで、子供の頃の記憶がよみがえり、繋がったような気がしたのだ。
都合のいい記憶であっても、繋がってしまえば、それが美麗にとっての真実であった。
交差点で見た少年が、本当にその時の少年だったわけがない。あれから何年経っているというのか。だが、幻影であっても、意識の中で辻褄が合っていれば、それは美麗の中の真実である。
「何かが私を真実に導こうとしているんだわ」
と、思っていた。
その日は、それ以上何もなかったのだが、美麗が樋口の部屋を訪れてみたいと思った大きな理由に、そのことがあったのも事実だ。
確かに、美麗は樋口の部屋に行きたいと計画していたのだが、最後、背中を押してくれるものがなかった。それは、交差点での「真実」によって、実現したと言っても過言ではない。
樋口の部屋に来る前に、交差点で感じたことだったのは間違いないのだが、それがいつだったのか、分からない。
その日から交差点を通る時、どうしても意識してしまう。それは、喧騒とした音が、貝殻を耳にあてた時の音になるのを感じようとするのか、それとも、見えているスピードがゆっくりになってくるのを感じようとするのか、または、空気の淀みが、茶色に変わってくるのを感じようとするのか、そのすべてを意識して、歩いていたのだ。
だが、思ったようなことは、二度と起こらなかった。それは、順序立てて段階を踏んでいるから、すべてを感じることができたのだ。そのことを、まだ美麗は意識できていなかった。それが分かってきたのは、樋口の部屋を訪れて、想いをぶつけることができたからではないだろうか。
樋口の部屋で、美麗はまた自分が少し背が伸びた感覚を味わったのを思い出した。その感覚が、樋口の部屋でも、交差点を思い出させ、意識の中で、自分が夢と現実の狭間にいるのではないかと思わせたのだ。
樋口の部屋にいた時間は、夢の時間のように、後から思えば、あっという間だった。だが実際には、もっと濃厚なもので、一線を越えていないにも関わらず、すべてを与えてしまったような錯覚に陥ったからだった。
樋口の部屋を出てから、美麗はどうやって家まで帰り着いたのか分からない。
美麗は、樋口には話していなかったが、その時すでに処女ではなかった。
友達の紹介で付き合うつもりで知り合った男性がいて、何となく雰囲気はよかったのだが、一線を越えてしまうと、お互いにどこかよそよそしくなって、そのまま別れることになった。
よそよそしさがあったのは、美麗の方だった。相手の男性は思ったよりも慣れていて、女性の扱いには長けているようだった。
近くの大学に通う三年生。すでに成人しているせいか、とても大人っぽく見えた。
最初は、大人っぽさが新鮮で、そこに徐々に惹かれていく自分を感じた。少し白々しい言葉も、この男性なら、白々しく感じられなかった。
大人の男性に憧れていることを、美麗はその時、再認識したのだ。そのことが、樋口への想いを再燃させることになるのだから、皮肉なものだった。
元々この男性と付き合い始めたのは、それまで燻っていた樋口への想いを断ち切ろうと思ったのが最初だった。
――叶わぬ恋――
それが、樋口への思いであり、自分の中で、どこかで断ち切らなければいけないことだったのだ。それには、新しい恋で打ち消すしかない。そう思うのは、至極当然のことだった。
子供の頃の記憶が繋がり、忘れてしまいたいと思った樋口への想いを成就させ、美麗は、今新しい自分を見つけようとしているのかも知れない。
美麗の中で、樋口だけでなく、交差点で見た少年の存在が、最近は大きくなっている。もちろん、それは恋心ではない。自分の真実を見つけようとする中で、通らなければならない道があるとすれば、避けて通ることのできない大きな存在になるであろうことは、間違いないだろう。
交差点で見た少年が、今は大学生になっている。そのことを美麗は知らない。だが、美麗は、処女を与えたその男性に、
「以前から知っていたような気がする」
と思っていた。まさか、彼がその時の少年ではないかという、大それた想像をするが、考えてみれば、交差点で見たのが、数年前の中学生であって、今の姿ではないのは、そのためではないかと思えるのだった。
それだけ、今の美麗の想像はとどまるところを知らない。その原因が、樋口にあるのだということを、徐々に美麗にも分かってきたのだ。
美麗は、処女を失った時、それほど悲しくはなかった。むしろ、大切に守っていくものではないという考えがあり、いつも一人でいる女の子は、他の回りの女の子が処女に対してどういう考えを持っているかなど、知る由もなかった。
別に知る必要もない。自分の中で、処女は重荷でも、何でもなかったからで、捨てた時、なぜか涙が出てきたが、不思議に思わなかったのがなぜなのか、自分でも分からなかった。
処女を失ってからの美麗は、すぐに彼を捨てた。彼の方でも、美麗に興味はなくなったようで、お互いに自然消滅だったのだが、相手に対して、気持ちがなくなったというよりも、最初から、気持ちなど存在していなかったようにさえ思えたほどだった。
美麗は、小学生の時に、怪しげな男につけられていたことを忘れてはいなかったが、気にしているわけでもなかった。その時の男を今まで、加藤ではなかったかと思ったが、樋口に抱かれた日から、あの時の男性は、樋口だったのではないかと思うようになっていた。