幻影少年
ある時、そこに中学生を見かけたが、その少年を見た時、時間を遡った気がした。顔はおぼろげにしか覚えていないが、口元を歪めた、余裕のある笑顔を見た時、家庭教師をしていた時に感じた不気味さを再度思い知らされた気がした。
気がしたというのは、瞬きした瞬間に、その場から、少年が消えていたことで、
「錯覚だったのか?」
という疑念を抱かせ、次第に、疑念が本当の意識として、固まっていったのだ。
中学生は人の波に呑まれていた。そんな時に限って、人の波が多いのを感じるのだった。きっと今までは人の波など漠然としてしか意識していなかったに違いない。だから、急に意識させられると、人が多いと感じるのかも知れない。
その少年だと意識したのは、笑ったように思ったからだ。それも、樋口を見てのことだった。樋口は、ゾッとしたものを感じたが、それが家庭教師をしていた時に言っていた意味不明の会話を思い出させたのだ。
樋口が、交差点で、家庭教師をしていた少年を見たのと前後して、美麗も、同じ交差点で、その少年を見ていた。
美麗は、短大に通うには、この交差点を通ることになる。樋口もこの交差点が通勤路になるのだが、二人が毎日通る道での共通点はここだけだった。
時間が合うことはなかったが、これだけの人がいるのだから、時間が合ったとしても、気付くことはまずないだろう。気付いたとしても、お互いに急いでいる時間だろうし、ゆっくり話をすることはできない。それなら、気付かない方がいいのではないかと、お互いに考えていた。
美麗はその日、朝から少し体調がおかしかった。少し熱っぽくて、ボーっとしていたので、熱を測ったが、平熱とほぼ変わらなかったので、そのまま学校に出かけた。
家を出るまでは重たかった身体だが、表に出て、歩き始めると、ゆっくりとであるが、身体の重たさが取れていった。
「これなら大丈夫だわ」
と、今までにも何度も同じようなことがあったので、安心していた。ただ、身体は楽にはなったが、頭はまだ少しボーっとしていた。これも珍しいことではないので、学校に到着するくらいまでには、何とかなると思っていたのだ。
いつもの交差点に差し掛かった。
相変わらず、車は多く、喧騒とした雰囲気にウンザリしていた。その日は頭がボーっとしていたせいもあってか、空気がいつになく淀んで見える。まるで排気ガスが空気を汚しているのが、目に見えるかのごとくであった。
ただ、これは珍しいことだった。今までにも少しくらいの空気の淀みなら感じたことがあったが、その時は、グレーだった。その日の目の前に広がっている空気には、限りなく薄いが、茶色に染まっていた。限りなく薄いにも関わらず、ウンザリするほどなのは、色が普段の淀みを感じる時と違っていたからだ。こんなことは初めてだったのだ。
「相当、体調が悪いのかも知れないわ」
休めばよかったと思ったが、せっかくここまで出てきたのだから、学校には行こうと思った。熱があるわけではないし、それほど気にすることもないだろう。そう思うと、美麗は歩みをゆっくりに変えていた。
今まで少々くらいの体調の悪さだったら、却ってスピードを上げていた。なぜなら早く通りすぎて楽になろうという意識があったからだ。だが、その時は自分の身体なのに、どうにも分からないことが多すぎる。無理をするのは、得策ではないと考えたのだ。
ゆっくり歩いて交差点に差し掛かった。交差点では、それまでと、違った角度で前が見えるから不思議だった。それは自分の身長が少し伸びたように感じたからだ。これだと、少し小さな男性と変わりないくらいであろう。
百六十センチを切っている美麗は、自分が百六十五センチを超えているくらいに感じられた。この差はかなりなものだ。思わず下を向くと、まるで二階から覗いているくらいの高さを感じた。もちろん、こんなことも初めてだった。
高さが違うと、思わず背筋が伸びているように思う。これ以上ないというくらいに背伸びしているように感じられることも、背の高さを感じる理由なのかも知れない。
自分がゆっくり歩いていると、まわりもゆっくりに見えてきた。目の錯覚だとは思いながらも、不思議な光景だった。
さらに、あれほどウンザリしていた喧騒とした雰囲気も、耳鳴りとともに、ほとんど音が聞こえなくなっていた。まるで、巻貝を耳にあてた時に感じる、風が通り抜ける時の音が聞こえるかのような雰囲気だった。
――どこかで聞いたことのあるような音だわ――
美麗は、最近見た夢を思い出していた。
あたり一面、すすきの穂。高原のようなところなのだが、風が吹くと、吹いてきた方から、徐々に穂がたなびいているのが分かる。
すすきの穂など、今までほとんど想像したことはない。これが夢の世界であって、想像の中にいることは分かっているのに、どうして想像がすすきの穂なのか、分からなかったのだ。
穂がたなびく中、ゆっくりと前を歩いている。
――どうしてゆっくり歩くの?
動かしている身体は自分のものなのに、必ずしも自分の意志によって動いているものではなかったのだ。
もちろん、数日後に、体調が悪くなってゆっくりにしか歩けない状態に陥るなど、その時には分からなかった。だが、そんなにゆっくり歩くことなどなかったはずなのに、
「以前にも同じような感覚があったような」
と思ったのだ。
しかし、交差点の中では、夢で見たことをすっかり忘れていたのか、本当に初めて感じることだとしか思えなかったのだった。
――夢と現実とで、意識が交錯している――
時系列が夢と現実とではバラバラなのは今に始まったことではないが、記憶している意識が、交錯してしまうことはそんなにあることではない。
すすきの穂を歩いて行くと、夢だという意識があるのに、なぜか、現実に近づいていくように思えた。
それは目を覚ますという意味ではなく、小高い丘を越えたその先に、現実が待っているのではないかという意識だ。
だから、ゆっくりにしか歩けないのだ。夢から覚めたくないという意識が強いのだが、歩みを止めることはできない。ここはそういう世界なのだ。とどまっていることは許されない。かといって歩き続ければ、いずれは、夢から覚めてしまう。
しかし、考えてみれば、夢の世界とは、すべてがそうなのではあるまいか、時間を止めることはできない、そして、覚めない夢はないのだ。夢から覚めないということは、そのまま死を意味することになる。それも、美麗には分かっていることだった。
小高い丘に近づいていくうちに、そこに誰かいるのを感じた。夢の中で想像するのだから、いてほしいと思う人がいるはずだ。それは樋口以外の誰でもないはずだった。
その時は、それが誰だったのか、ハッキリとは分からなかった。だが、樋口以外にはいないと思い、それなりに満足して目が覚めたのを覚えている。その時の感覚と似たものが、今交差点の中で感じられるのだった。
交差点の中では、背が高くなったのを感じていると、ちょうど同じくらいの視線で、見つめられたのを感じた。