幻影少年
「復讐する人間には、共通点がある」
と言っていた。それは相手が先生であるということだと思っていたが、少し考えてみれば、
「見かけ倒しの人間」
というのも、少年にとっては、復讐の対象なのかも知れない。
「君は、親に対してはどう思っているんだい?」
さっきまでの笑顔でも、真剣身を帯びた、不気味な笑顔でもない表情が浮かんだ。
歯を食いしばっているようで、唇を歪め、さらに目をカッと見開いている。その表情は怒りに満ちていた。
「親? バカバカしい。復讐する価値もないさ」
本当に嫌悪しているようだった。
その思いは、樋口にも分かった。親というのは特別で、恨みという言葉は親子関係では存在しないようなものだと思っていたが、少年の顔を見ていると、自分にも親に対しての恨みがあるように思えていた。
少年の前で、親の話題はタブーだったようだ。
ひょっとすると、この少年の不思議な力は、親に対しての恨みの思いが形を変えて現れてきたものではないだろうか。少年も言っていたではないか、
「選ばれた人間が持つことのできる力だ」
ということをである。
それからの少年は明らかに態度が変わった。樋口と目を合わそうとはしなかった。最初はじっと樋口を睨んでいたが、途中からは、絶対的な優位が自分にあることが分かったのか、視線を合わせることが少なくなった。完全に上から目線だったのである。
それが今度は目を合わせることをしない。合わせないどころか、どこか焦りのようなものが見られる。
――怒りは焦りを生むんだな――
と思うと、それまで一部の隙もないと思っていた相手に、小さな穴が開いているように思えてきた。
小さな穴はそこから綻びを生む。生まれた綻びは、相手にそれまでなかった心の余裕を与えることになるのだ。
余裕は考える力である。余裕のない中で考えたとしても、それは相手が描いたシナリオの上で踊らされているに過ぎない。そのことが分かると、今度は加藤の心に余裕がないことが見えてきた。
加藤が余裕を持つと、どんな人間になるのか、想像もつかない。あくまでも余裕があるかのように装っていて、樋口はさっきまで、完全に騙されていたわけだからである。
――このまま騙されついでに、何も知らないつもりでいると、今度は加藤のことが分かってくるかも知れないな――
と、思うようになっていた。
――そういえば、少年の言っていた、強迫観念とは、どういうことだろう?
少年は、樋口が複数の女性を好きになったことを知っていた。それは美麗と利恵のことだろう。利恵に関しては、最初から好きになった一目惚れ、そして美麗に関しては、後から告白されたことで好きになった相手、そこに大きな違いはあるのだろうが、好きだという感覚に違いはない。
同じ好きだと言う感覚であっても、それぞれに違う。もちろん、相手が違うのだから当然のことだが、強迫観念という意識はあまりない。
特に、美麗に関しては、教え子だった頃から、あまり意識しないほど、普通の目立たない女の子という意識が強かったが、利恵のことは、まだまだこれから知ることになるはずだった。
それなのに、少年は看破している。いや、まだ樋口自身も、女性と知り合う前なので、樋口の性格から察したことなのか、それとも、少年には予知能力のようなものがあるからなのか分からない。そんなことを考えていると、樋口はこの少年と、近い将来出会うような気がして仕方がなかった。
樋口は、最近、交差点が気になるようになっていた。交差点というのは、以前から気になるスポットの一つであったが、それは不特定多数の人間が入り混じっているということが気になる一番の理由だった。
お互いに知っている人がいても、気付かない。中には気付いている人もいるかも知れないが、相手が気付かないのであれば、わざわざ声を掛けるようなことはしない。
交差点では立ち止まらない。後ろからすぐに人が押し寄せてくるからだ。立ち止まらないのではなく、立ち止まれないのだ。立ち止まってしまうと、そこで、将棋倒しになってしまう可能性があるからだ。
交差点が気になるようになったのは、交差点特有の雰囲気と、さらに、誰かの視線を感じるようになったからだ。その視線は、強く感じる時と、ほとんど感じさせない時がある。強く感じる時は、反射的に感じた方を見るのだが、そこには、知っている人はいない。すでに通りすぎたあとなのだろうが、
「気のせいか」
と、すぐに意識を切り替えることができる。
逆に微妙な強さの視線を感じる時は、意識は強く、さらに長く残ってしまう。気のせいだとは思わないからだ。
強い視線を浴びる時は、その人に作為は感じられないが、微妙な視線を感じる時は、相手になるべく悟らせたくないという意志が明らかに働いている。最近、特にこの微妙な強さの視線を感じるようになった。何度となく感じているうちに、視線を感じることに敏感になってきたようだ。
その視線が、男性であることは分かった。そして、思ったよりも低いところからで、小柄な男性からの視線だった。
ちょうど、中学生くらいの身長になるだろうか。樋口が家庭教師をしていた少年が確かこれくらいの身長だったように思う。
だが、あれから何年も経っているのだ。成長期の彼は、まだまだ大きくなれる要素があった。長身になったかどうか分からないが、あの時の身長のままだというのであれば、解せない気がする。
しかし、この交差点は、通勤路に当たる。毎日、少なくとも行きと帰りの合計二回、ここを通ることになるのだ。毎回視線を感じるというわけではないが、感じているうちに、中学生だった少年のイメージが浮かび上がってくるのだった。
樋口は、もし少年に遭った時、聞いてみたいことがあった。それが、樋口と付き合う女性に生まれる強迫観念のことである。
強迫観念とは、人と話をした時に、追いつめられる感覚を思い浮かべるが、そのことだろうか? 会話をしなくても、意識の中だけでも強迫観念が生まれると思っているが、それは孤独や寂しさを表に出さないようにしている人が感じることだろう。そう思うと、美麗にも利恵にも、隠された寂しさがあるというのだろうか。
美麗に対しては、樋口は分かっているつもりだった。一晩だけでも一緒にいれば、分かってくる。特に教え子としてしか見てこなかった相手に、女を感じたその日、最後までするしないの問題ではなく、美麗が樋口をどれだけ愛しているかが問題なのだった。
樋口と美麗の出会いは、先生と生徒の関係であった。
「生徒に手を出すわけにはいかない」
という思いから、樋口は、美麗の気持ちが分からなかった。いや、分かっているつもりでも、相手が教え子ということで、無意識に気付かないように心掛けていたのかも知れない。
いくら、教え子と分かっていても、相手の方から好きになってくれたのであれば、理性をどこまで持たせることができるか、分かったものではなかった。
交差点を渡りきって、何度、後ろを振り返ったことだろう。それは今までに何度もあったことであるし、同じ時に、何回も後ろを振り向くこともあったくらいだ。