幻影少年
知っていることが仏なのか、知らないことが地獄なのか、一見、同じ意味に感じられるが、まったくニュアンスが違う。二つの間には大きな空気の穴が開いていて、他の誰かが入り込めるほどの穴なのかも知れない。
勉強を教えることには、何ら問題はない。彼は物覚えが悪いわけでも要領が悪いわけでもない。それなのに、なぜか成績がパッとしない。家庭教師をしていて、これほど辛いことはないかも知れない。
教えても覚えてくれなければ、イライラはするが、どうすれば覚えてくれるかを考えればいいことだった。しかし、物覚えが悪いわけではなく、応用力もある。それなのに成績が悪いというと、教える方は、どうしていいのか分からない。
学校の先生とは違うのだ。
勉強を教えて、生徒の成績を上げることだけを目的にして雇われている。いくら教えても、それが形にならないのであれば、家庭教師失格なのだ。
教え方が悪くて覚えてくれないのであれば、ダメ家庭教師の烙印を押されても仕方がないが、覚えてくれていて、理解もしてくれているのであれば、それ以上、どうすればいいというのか。成績が悪いというのは、家庭教師に対して、何か恨みがあってのことではないかと思っても仕方がない。
少年は、時々ニヤリという不気味な笑顔を浮かべることがある。その顔はゾッとするもので、そのまま帰ってしまおうかと思うほどで、自分がどうして、こんな目に遭わなければいけないのか、運命を腹立たしく思うのだった。
「自分の思った通りにならないことの辛さが、先生にも分かったかい?」
とでも言いたげな雰囲気に、樋口は初めて、子供が怖いと思った。子供だからということで、正直舐めていたところがあったが、甘い考えであったことを思い知らされた。
「先生、女性のことで悩んだりしたことあるでしょう?」
まだ、少年の恐ろしさを知る前のことだったが、
「ほう、ませたことをいうね。まるで君は知っているような言い方じゃないか」
「うん、先生が知っているくらいのことなら、僕にだって分かるさ」
子供のくせに、何を言っているのか。これ以上、御託を並べると、無視してやろうと思っていた。
「そんなに大人の世界を知りたいと言う気持ちは分かるけど、他の人にはあまり言わない方がいいよ。先生だからいいけど、何言われるか分からないよ」
と、たっぷりと皮肉を込めたつもりで言ったのだが、
「ふん」
と言って、鼻で笑うと、
「先生はロリコンみたいだから、小学生には気を付けた方がいいよ」
ドキッとした。確かに大学時代には、小学生くらいの女の子が可愛いと思っていたのだ。相手が小学生なので、可愛いという感情は、愛情とは違うものだと思っていた。
「ロリコンとは、ひどいな。先生をからかうのは、いい加減にしたらどうだ?」
最高潮の怒りが込み上がってきたのだが、あまりにも的を得ていると、怒りは身体を硬直させ、引きつった表情は、気持ちも引きつらせる。それでも、必死に堪えながら平静を装い耐えていたが、
「先生、無理しなくてもいいよ」
こみ上げてくる怒りに蓋をして、軽く揺らして、こちらの怒りをさらに増幅させるような言い方だった。
――無理しなくてもいい? 一体、何様のつもりなんだ――
落ち着いているつもりでも、歯を食いしばって耐えていても、顔には出ているのだろう。それを嘲笑うかのように、またしても、ニヤリと微笑んだのだ。
樋口は加藤の話を聞きながら、その時のことを思い出していた。加藤の前だが、もう思い出してしまった以上、表情を元に戻すことはできない。普段落ち着いて見られるだけに、樋口の表情に、加藤は、どう考えているのだろう。
「でも、その時の少年は、他の学校に転校して行ったんですよね?」
「ああ、転校して行ったんだが、おかげで、非難は、俺のところに来たさ。行方不明になったのが、どうやら、俺に対しての当てつけだったんじゃないかって噂が流れてね」
「どういうことなんですか?」
「何でも、彼には悩みがあったらしくて、それを先生に相談したんだが、冷たくされたので、面当てに行方不明になったっていうことになったのさ。俺の知らないところで噂は勝手に独り歩きを初めたのさ。だけど、噂になった時点で、俺が何を言っても、言い訳でしかないんだからな」
その気持ちも分からなくはなかった。家庭教師をしていた時の少年も同じで、
「僕に何かあったら、全部先生の責任になるんだよ」
とまで、ほざいたくらいだった。
「しょせん、家庭教師さ。そこまでの責任なんて負えるわけないだろう」
完全に頭に来ていたので、怒りを込めて相手に言葉をぶつけた。
相手はそれを待っていたかのように、ニヤリと微笑み、
「先生、何言ってんだい」
「?」
少年は落ち着いていた。樋口の言った言葉、それはいくら腹が立っても、言ってはいけないことだったのだ。
――すると、今のは誘導尋問?
樋口は急に恐ろしくなって、部屋の中を見渡した。どこかに盗聴器でも仕込んであって、録音でもされていたらと思うとゾッとする。
「先生、大丈夫だよ。盗聴器なんてないからさ。大体僕は中学生だよ。そんなもの買えるわけないじゃないか」
完全に嘲笑っている。
「それはそうだが」
「じゃあ、何かい? 僕の親が何か仕掛けてあるとでも思った? 僕か先生を監視するために」
この少年の性格からすれば、それくらいのことがあっても、驚かなかった。
理由は二つある。
まず一つは、こんな子供の親なんだから、どんな性格なのかと思ってしまう。まるで、
――親の因果が子に報い――
とでもいうのであろうか。
また、もう一つは、子供がどれほどひどい性格であって、何をするか分からないという意味で、苦肉の策としての盗聴器である。
どちらにしても、子供が大人には手に負えない性格だということである。
もちろん、まさか盗聴器などあるとは、本気で思っていない。あたりを見渡したのは、本能とでも言えばいいのか、誰かに見つめられているような恐ろしさがあったからだ。
そう思うと、部屋が急に狭く感じられた。カーテンで向こうは隠れているが、窓の向こうは、鉄格子が嵌っているのではないかという思いだったり、カーテンの向こうに、もう一つの部屋があり、子供が寝ている時など。時々親が覗いているのではないかなどと考えさせられた。
部屋を狭く感じたのは、言い知れぬ圧迫感に包まれたからで、圧迫感は、窓の向こうから見つめられる恐怖を表していたのだ。
少年の言葉には、次第に抑えている怒りが見え隠れしているようで、その反面、喜々とした声に、背筋に寒気を感じさせるものがあった。
ここから先は、樋口の勝手な想像だったが、想像している樋口には、自分がどこにいるのかすら分からないほどの、混乱が頭の中にあった。目隠しをされ、立ったまま、何度もクルクル回されたような気がするのだ。
平衡感覚がなくなると、状況判断などできるはずもない。夢と現実の狭間に境界がなくなり、錯覚が現実の延長であるかのように思わせるのだった。
「僕は、今までに企てた復讐を、何度も実現させてきたんだよ。先生だって、僕に何かしたら、どうなるか分からないよ」