幻影少年
怪しいだけでは、誰も何もできない。男に注意することもできず、もし本当に危ないのであれば、男を監視して、いざという時に飛び出していくしかないだろう。
だが、まわりから見ると、監視している方も、よほど怪しい人間に見えてくる。それだけの勇気を持って、しかも時間を割いてまで、男を監視することができるのは、女の子の近しい人間、つまりは肉親か、本当に彼女に好意を抱いている人しかいないだろう。
ただ、その時の様子は、明らかに異様だった。
――どうしよう――
樋口は、迷っていた。このまま見逃すと、一生後悔するかも知れないと思っていた。とりあえず、少しだけでも様子を見るしかないと思い、今来た道に踵を返して、振り返ろうとしたその時、怪しい男から離れること十数メートルくらいであろうか。その男を監視する姿が見えた。
怪しく見えたが、それは、樋口が怪しい男に気が付いて、監視を始めたからであった。もし、何も考えずに普通に歩いていたら、怪しい男には気が付いたとしても、それを監視している男には気付かなかったかも知れない。それほど、監視している男の気配は、消えていたのだ。
――どこかで見たような――
と思ったその時にちょうど、街灯が男の顔に当たり、よく見ると、まだ子供のようだった。子供と言っても中学生で、そう、見たことがあると思ったのは、自分が家庭教師をしている男の子だった。
普段から暗い雰囲気で、何を考えているか分からない雰囲気そのままに、男を監視している。しかし、監視するには気配を消さなければいけないという点では、彼は適任だったのだ。
女の子は、自分がつけられているのには、気付いていないようだった。ただ、漠然と怖がっているだけだ。交番の前を通りすぎた時も、もし気付いているなら、とっさに飛び込んだはずだからである。
交番の前を、怪しい男も通りすぎて行く。別に交番の前だからといって、緊張する様子もない。完全に、視線は前しか見ていないのだ。
交番の中では、警官が、机に座って、書類に一生懸命何かを書いている。表をいちいち気にしている素振りはない。
監視をしていた少年が、交番の前を通りかかると、自分から、交番に飛び込んでいった。何かを説明していたようだが、すぐに警官は、少年に対し、
「ありがとう、君は危ないから、帰っていいよ」
と言っているようだった。
警官は少年を帰すと、怪しい男に職務質問をしていたが、そのまま説得するかのように、男を交番の中に呼び込んだ。怪しい男は神妙にしながら、警官に従い、怪しい雰囲気だけを醸し出したまま、結局、ただの小心者であったことを示しているだけだった。
その時の女の子は、そのまま何事もなかったように家に帰っていったが、その時の女の子が、美麗だったような気がして仕方がない。
元々、教師になりたいとは思っていたが、大学生活の中で具体的にどんな教師になりたいなどと考えたことはなかった。家庭教師をしていても、反応のない生徒相手では、まるで暖簾に腕押し状態、何も得るものがなかった。
だが、少年の勇気にも似た行動を見て、
――見かけだけで判断してはいけないな――
と感じた。
それでも翌日からの家庭教師に変化があったわけではないが、彼に対する見方だけは少し変わった。そのうちに話をすることもあるかも知れないと思ったからだ。
結局、心を開いて話すこともなく、家庭教師期間は終了したが、彼もめでたく、志望高校に合格し、家庭教師としての「任務」は無事に終わった。
めでたく高校教師になって数年が経って、美麗が入学してきた時、
――どこかで会ったかな?
と思ったが、そう感じたのは、最初だけだった。直感で感じただけなので、すぐに錯覚だと思ったのだ。いや、錯覚以外の何者でもない。深く考える必要など何もないと思ったのだ。
ひょっとして、美麗が樋口を意識したのが最初からであれば、樋口が感じた、
「どこかで会ったことのある」
という感覚で見つめた時に、美麗も何かを感じたのかも知れない。
「見つめられている」
と感じた時に、自分の中にある表に出たいという感覚が、
「先生が好きだ」
という感覚に変わっていったとしても不思議ではないだろう。
樋口はさすがにそこまでは分かっていなかった。ただ、以前に見たことがあったかも知れないという思いを感じたのは、二回だった。
美麗が入学してきた時が最初で、その次は、美麗が卒業して初めて会った、そう、樋口の部屋を訊ねてきたあの時が二回目だったのだ。
樋口は、美麗が入学してきた時を思い出したのは、無理もないことだった。一度意識をして、すぐに意識から外してしまった美麗。その間に美麗の中で、樋口に対しての想いを育んできたのだろう。
美麗は、男の子にも人気があったようなので、美麗に告白してくる男の子も結構いただろう。それでも告白をすべて断り、樋口一途でいたのだ。
樋口は、そんな美麗の視線にどうして気付かなかったのだろう? 最初に意識して、すぐに視線を逸らしてしまったので、その瞬間に元に戻すことができない呪縛のようなものに掛かってしまったのだろうか。
美麗は樋口の好みのタイプだ。あまりにも好みにかぶってしまうと、今度は相手が自分を相手にしないのではないかとすぐに諦めてしまう性格があることから、意識しなかったのだとすれば、その気持ちは結構硬いものだっただろう。樋口が美麗を意識しなかった理由の一番はそこだったに違いない。
樋口が一目惚れした利恵は、逆だった。樋口がいくら意識しても、樋口を見る様子はどこにもない。また加藤も同じような感覚になっているようだが、加藤に対しても同じだった。
人からいつも注目されている人は、本能的に相手と目を合わさないようにできるのではないかとも思った。確かに利恵には人を惹きつける魅力が備わっている。一目惚れというのは段階があり、惹きつけられることが最初で、そこから自分の感情が働くのだ。自分の感情が働き始めた頃には、好きにならずにはいられない心境に陥ってしまっている場合、それを一目惚れという。惹きつけられて、感情が働いた時、少なくとも好意を持つことに間違いはない。その思いが次第に強くなるのか、それとも、一気に爆発するのかで、変わってくる。それが惹きつける強さに比例するとは一概には言えないだろうが、関係がないわけはないのだ。
美麗には、利恵のような惹きつける力はない。だが、どこか気になる女性としての思いが、一度感じさせると、沸々としたものがこみ上げてくることになるだろう。一目惚れほど強烈ではないが、包まれる感覚をジワリジワリと感じることで、焦らされているようなくすぐったさが、快感を倍増させるのだろう。最後の一線を超えることがなかったのは、倍増した快感をじっくり味わっていたかったからだった。
その時に感じなかったことを、後から思い出すと、いろいろ感じることができる。それが、美麗との間でこれから育んでいく愛情を保っていく秘訣ではないかと思うのだった。
美麗と利恵を比較しても仕方がないと思うのだが、これから樋口自身、どう考えていけばいいのか、考えていた。