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幻影少年

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 しかし、その日は、目立っている連中に対してよりも、静かに列車に乗っているサラリーマンやOLの姿が、樋口の気を引いたのだ。本を読んだり、スマホや携帯を弄っている人も多いが、何もしていない人は、誰もが下を向き、何かを考えているように見える。
 いつも見ている光景のはずなのに、なぜか、今日は彼らが気になっていた。もっとも、普段の自分も同じ表情をしているに違いない。気が付けば、いつも降りる駅に着いている。その間、何かを考えていたような気がするが、降りる駅に近づいて、我に返ってみると、それまでの電車の中での意識は、どこかに飛んでしまっていたのだ。
――彼らも同じなのかも知れないな――
 と、思うと、普段の自分も、今の自分が見つめているような視線を浴びているのかも知れないと思った。
 視線を感じたことがないわけではないが、意識として残ったことはない。誰かに見つめられていると感じても、我に返るほどの意識がないということだ。
 きっと、電車の中にはたくさん人がいて、誰もが他人なので、見つめられたとしても、自分には関係のないことだという意識を持っていたのかも知れない。そのおかげで、電車の中ではまったくの自分の世界を作ってしまって、人を意識するなど、考えられないことだったのだろう。
 その日は、今までになく、一人の世界に入り込んでいたのか、我に返るのが遅れてしまった。駅に着いてからも、少し我に返るまでに時間が掛かったことで、もう少しで乗り過ごすところだった。
――危ないところだった――
 この思いは、本当に久しぶりだった。学生時代以来であろうか。
 それも、受験を間近に控えた時のことで、今から思えば、人の視線を今よりも感じていたのかも知れない。
 電車の中の視線を感じていると、また意識が朦朧としてきた。気が付けば、部屋の中で寝ていたのだが、電車の中での視線が、まるで夢の中でのことだったように思えた。
 夢の中での出来事だということですべてを片づけてしまうと気は楽なのだろうが、意識の中に、何かが残ってしまうと、夢の中というだけでは済まされない感覚に陥る。誰かに見つめられているというのは、被害妄想の表れだという思いが一番大きい。だが、被害妄想だと考えるのは、夢の中ではありえない。
 夢は潜在意識が見せるもの、都合の悪いことは、なるべく考えないのではないだろうか。それなのに、怖い夢を見るというのは、どうしてなのか? それは、夢を潜在意識が見せるものだということを、現実世界での意識に感じさせないようにするための、辻褄合わせなのだろう。
 夢とも現実とも知れない中を、樋口は彷徨っているかのようだった。

 美麗は、樋口への思いを打ち明けることができて、安心感に包まれていた。自己満足に近いものではあったが、今の美麗は自己満足でもいいと思っている。
 元々、自己満足をよしとしない性格だったはずなのに、どうして自己満足で安心感に包まれるのか不思議だった。一つのことを思いこむと、一気に気持ちを成就することだけをいつも考えていたからなのかも知れない。自己満足をしてしまうと、そこで一旦成就に向かう気持ちが、止まってしまう気がするからだった。
 樋口の感触を、まだ身体に残したまま、美麗は自己満足に浸っていた。部屋に帰ってからベッドに横になり、改めて自分の部屋を見渡してみた。
「今日から、私は生まれ変わったんだ」
 想いをぶつけることができたのは、自分を生まれ変わらせることができるほどの、大きな力になっている。学生時代からずっと溜めていた思い。それは時間が長ければ大きいというものではないが、少なくとも、何年にも及んで溜めていた感情は、二、三日で出来上がった俄かな感情と比べ物にならないほどの大きなものであることは、当然のごとく分かっている。
 昨日の今日のこの時間くらいだっただろう。
「明日の今頃、私は何を考えているんだろう?」
 意を決して、樋口の部屋を訪れようと心に決めていたが、長居はしないつもりだった。どんなに気持ちが盛り上がって、樋口と一線を超えることになっても、今この時、同じように自分の部屋のベッドの上で、同じように部屋の中を見渡し、最後は天井を見つめていようと、最初から心に決めていたのだ。
 昨日感じた感覚は、
――部屋が微妙に動いているのではないか?
 という思いだった。明らかに錯覚だったのは間違いない。部屋が動いたように感じるのはなぜなのか、一生懸命に考えてみたが、結局その日には分からなかった。しかし、
――明日になれば、きっとその答えが見えるような気がする――
 と感じた。もちろん、どこにそんな自信があるのか、根拠もないはずの考えに、明日は必ずこの時間に、同じようにベッドの上に寝転がって、部屋の中を見渡さなければならないという使命感に包まれていた。
 正直、樋口の部屋で、想いを遂げている時にも、この思いは頭から離れなかった。好きな男性のそばにいるのに、どうして他のことを考えるのか、不思議だったが、しばらくすると、一つのことに集中していたり、没頭している時というのは、無意識にかも知れないが、他に何か大切なことを思い抱いているのかも知れないと感じるのだった。
 美麗は、樋口の部屋を出てきた時の感覚が、次第に薄れてきた。それは、時系列が曖昧になってきたことが起因していることに、俄かには気付かなかったのだ。
 樋口の部屋で一緒にいる時のことは、まるでついさっきのことだと思うのに、樋口の部屋から出てきた時の感覚は、かなり前だったように思えるのだ。
 樋口の部屋を訪れた時の感覚は、まずは意を決して、
「思い切って、行ってみよう」
 という思いが最初にあり、
「今までの想いをぶつけるんだ」
 という思い、そして、満足した気分を抱いたまま、彼の部屋を後にして、帰ってくるまでの間に、普段の自分に戻らなければいけないという感覚だった。
 別に普段の自分に、絶対に戻ってしまわなければいけないわけではない。しかし、今日の美麗は、ハッキリと意識を戻してしまわないと、昨日感じた、
「同じ時間での、ベッドから見た部屋の雰囲気」
 を、感じることができないと思ったからだ。
 最初に感じた「意を決した思い」は、今から思えば、遥か前だったように思う。それは最初から分かっていたことではないだろうか。意を決して告白するまでに、いろいろな思いが頭の中にあり、パンクしかかっていたくらいだったはずだ。その気持ちが成就したのだから、意識としては、今とはかなり違ったものであって当然である。
 考えを論理づけるのであれば、かなりの段階を踏む必要があるだろう。たくさん考えた中に、本当に成就した内容のものが含まれていたかどうか、すぐに思い出せるものではない。それだけに、いろいろな考えを思い出すのが困難な中、記憶が近いことはありえないという思いが頭にあることだろう。
 そういう意味で、時系列は、樋口の部屋の中にいる時までは繋がっているのだ。
 だが、樋口と一緒にいる時間を、「至福の刻」として、心の中に残しておきたいという意識がある。そのために、この時間を特別なものにしておくために、最後に部屋を出てきた時を、
「ずっと以前の感覚」
 として、頭の中に残しておくことで、
作品名:幻影少年 作家名:森本晃次