幻影少年
「俺もそう思っていたんだけど、どうも、そうじゃないみたいなんだ。自己嫌悪に襲われると、それまでの自分が分からなくなる、途中で置き去りにされているということだと思っているんだ。それを気付かせてくれたのが、今回の視線だというのも皮肉なことだと思うんだけどね」
途中で置き去りというのも、すごい発想である。なるほど、途中で置き去りにされることほど怖いことはないと思えば、自己嫌悪の本当の恐ろしさがそこに潜んでいるように思えてくるのも、至極当然のことだった。
置き去りにされてしまった感覚は、以前付き合っていた女性からフラれた時に感じたことがあったが、その時も自己嫌悪に近いものを感じたのを思い出した。
あの時のショックは、どれくらい続いただろう?
確か、半年以上立ち直るまでに掛かったような気がする。
その時に感じたのは、
「友達って、案外といいものだ」
というものだった。
落ち込んでいる時というのは、人が羨ましくも感じるが、自分ほど惨めな人はいないという思いに包まれている。
その中の一人から優しい言葉を掛けられると、
――俺なんかに、そんなに優しくしてくれるんだ――
と、惨めさを噛み締めている自分に、救いの手が差し伸べられた気がして嬉しくなってくるのだ。
優しくしてくれる人は、そんなに多くはないが、優しくしてくれる人がいるだけで、他の人から普通に話しかけられても、
――俺なんかに話しかけてくれるんだ――
と、それまでの自己嫌悪を、跳ね除けるだけの、元気が出てくるようで嬉しかった。
それでも、ショックは果てることなく続いていた。
――立ち直ることなんて、できるんだろうか?
と感じるが、それは鬱状態のように、
――いつかは、絶対に通り抜けるんだ――
と、周期的な感情が、百パーセントに限りなく近い可能性と違って、何かが原因で落ち込んでしまったら、理由なく抜けることはできないのだ。
「俺が、少々のことを気にしないような態度を取っているのは、自己嫌悪に陥らないようにしようという気持ちと、まわりの人に前の学校で起こった事件を、自分のせいだと思われたくないという気持ちが、豪傑な性格に見せようとしているんだ」
「何となく、分かる気がするんだが、どうして僕に話してくれたのかという回答にはなっていないようだが」
「実は、最近になって、その視線がどこから来ているものなのか、分かってきたんだ」
「それが僕に関係があるというのかい?」
「そうなんだ。その視線の主というのが、先生のクラスの水沼利恵だったんだ」
加藤が教えている科目は日本史だが、日本史の授業は、週に二回ある。週に二時限は、利恵と加藤が顔を合わせることがあるということで、まったく面識がないわけではないが、利恵が加藤を意識する理由が思いつかない。
加藤が自分で話していたように、最近までまったく利恵を意識していなかったというのは、ウソではないと思う。意識し始めたのは見つめられたからだろう。それを分からせなければ話が進まないということで、本当なら言いたくもないはずの、前の学校での事故の原因を、口にしなければならないという、ジレンマがあったに違いない。
利恵は見た目、大人しそうには見えないが、目立つ方ではない。むしろ、目立たない方だ。目立たないように装っていて、そのくせ、自分からの視線は鋭いのだ。
加藤が言っていたように視線に包み込まれる感覚は、利恵に対して、ならではの考えなのだろう。他の女性であれば、一度女性の視線で失敗している加藤が、そう簡単に引き込まれるとは考えにくい。それでも、何とか引き込まれないようにしようとする感覚が、ジレンマを呼び起こしているのではないだろうか。
包み込むような感覚と言う表現を聞くと、優しさは母性本能に近いものを感じるが、母性本能には、あまり縁のない樋口にとって、加藤の話は、右から左に通り抜けてしまう内容に聞こえてきた。
そういえば、最近樋口は図書館で調べ物をすることが多いが、図書館の雰囲気に、包み込まれるような感覚を味わったことがあった。
静寂の中で、耳の奥の鼓膜がツーンとはちきれそうな感覚がしてくる中、濃厚な空気が漂っているのを感じていると、少し気が遠くなってくるのを感じた。
しかし、気が遠くなる中で、濃厚な空気に包まれる感覚に陥ってくるのも感じていた。そこに暖かさはなかったが、急に誰かに見られているのを感じた。
見ている人の視線は感じたが、自分が想像した人間はそこにはいない。見つめていると思っていた相手は他でもない、利恵だったのだ。
室内を見渡しても、見当たらない姿を追い求めていると、気が遠くなりかかり、頭がぼんやりとしていたものが、すっきりとしてくる。それにしても、視線の先にあるものは何だったのだろう?
樋口は、加藤の話を聞いているうちに、自分も誰かに見つめられているのではないかと思うようになっていた。美麗が学生時代に自分を意識していたことに気付かなかったが、もし気付いていたらどんな気分になっていただろうかと感じてもいた。
「僕は、誰かから見つめられることを意識したりすると、すぐに気が遠くなってしまう性格なのかも知れないな」
そう思うと、教員室で、急に気分が悪くなったのも、誰かに見つめられていたのを意識したからであろう。
水沼利恵という女性が少し怖くなった。今までは。惚れた者の弱みというべきか、自分が見つめているだけで、向こうから見つめる視線を自分で感じたことはない。
――利恵に、男性を強く見つめる視線など、ありえない――
という思い込みがあったのだ。
――ひょっとすると、加藤の思い過ごしなのかも知れない――
と、最初は、そう思ったが、自分も時々感じる誰かの視線。そして、原因不明の気絶してしまうほどの貧血と、続いて感じるものがあると、無視するわけにもいかなくなった。
ただ、人の視線を感じるようになったのは、最近のことだった。利恵が入学してきてからのことで、今年の新入生を迎えてからのことだった。
樋口は、自分が今まで一目惚れなどしたことがなかったのに、いきなり一目惚れをしてしまったこと、そして、感じることのなかった視線を急に感じるようになったこと、それは、樋口自身の意志とは別に、他の力が樋口に対して働いているのではないかと思うようになっていた。それは加藤の話を聞くまでにも少し感じていたことではあったが、加藤と話をして、やっと確信めいたものに近づいてきたのではないかと思うようになってきたのだ。
樋口は、その日、加藤と別れて、一人自分の部屋に帰ろうとして、電車に乗った。それほど呑んだわけでもないのに、電車の揺れは、樋口に酔いの回りを強くしていた。時間的には、まだまだ宵の口とでもいうのか、電車の中は乗客でいっぱいだった。
あまり、こんな電車に乗ったことはない。目立っているのは、酔っぱらいの集団が、他人を憚らずに、自分たちの世界を作り、必要以上の大声で、叫ぶように話している。
豪快に笑い飛ばしているのを聞くと、不快指数は百パーセント。不快以外の何者でもない。